白い本   「夢のアイランドは向こう側」


第1回

宝塚界隈は熱気に包まれていた。
全国的に盛り上がり宝塚歌劇を知らない人でも知るようになった
「ベルサイユのばら」の総集編の公演がひかえていたからだ。

前売り切符を求める人達は熱気どころか殺気だっていた。
切符の仕切りは公演をする組のファンクラブの幹部、
何時に点呼するか判らない中の行列だけに皆異常な状態だ。

その点呼の時に居なければ権利はなくなるので、皆必死だ。
早くから出来た行列も時間が経つに連れて騒然さは一段と激しさをました。

北野はこれを最近出来た夕方のワイドニュースに取り上げるべく
次の点呼が何時に行われるかしかるべき筋の人に探った。

午前0時に点呼をすると言う事が判ったが、取材に来るという情報も
また直ぐに逆にファンクラブに流れた。

北野と取材クルーは密かにファミリーランドの正面入り口が見える木陰に
車を止め様子を
時計で伺っていた。
針が0時を指したとたん何処にいたのか何百人という人が集まって来た。
そして
ノートを持った女の人を囲んだ。今だ、カメラマンがカメラを持って行列に向かった
途端に行列の集団が騒ぎ出した。撮るなと言う男の声が響いてきた。
並んでいる人の中にかなりの男の大人がいたのだった。
遅い時間なので娘の為に代わりに来て並んでいたのだ。
カメラマンも余りにもあからさまに撮ろうとしたのもいけなかった。

車に帰ってきたカメラマンは、300人位が1グループでその代表が点呼を受けて終わりでした。
点呼するほうはノートに名前が書き込んでありました、と説明してくれた。

真夜中の行列はあっという間に姿を消した。その仕切りの見事さはたいしたものだった。

宝塚歌劇団の稽古場は劇団事務所の3階にあった。
2階にある事務所の横を通り細い階段を上ると、
そこには一番教室という大劇場の舞台と同じ寸法の広さがある稽古場がある。

北野は心をどきどきさせながらカメラマンと階段を上った。
星組公演の「ベルサイユのばら パート3」に出演する鳳蘭、榛名由梨、初風惇が
稽古の合間インタビューを待っているからである。
初風惇は「ベルサイユのばら3」のこの公演で退団が決まっている。
鳳、榛名はまだまだこれからの人だ。昭和51年3月25日の初日まじかである。

舞台で見慣れた顔に北野は圧倒された。
初風にはマリーアントワネットを演じて退団する気持ちを聞いた。

フェルゼンを演じる鳳蘭にはベルサイユのばらの舞台の事を、
榛名由梨にはオスカルの事を聞いた。
北野はかなりインタビューしたつもりだったが、時間にすれば5分ぐらいだった。
フィルムの時代で音声はマグネの時代だった。
カメラマンはあまりこの手のものを得意とする人間ではなく、
現場ではスターを目の前にかなりあがっていた。
カメラのフィルムを取り替える手がふるえるのがその証拠だった。

「ベルサイユのばら」の脚本演出の植田紳爾はプログラムにこう書いている
「山をこえればまた山ありき霧深く閉ざしたり、
これは恩師北条秀司先生が書いて下さった色紙の詩で、
私の机の前にいつも置いてあります。まったく私たちの仕事というものは
一つ一つ山を登っていくようなものです。
このベルサイユのばらもそうでした。一作、二作、三作と次々にけわしい山がそびえ
ひき返すこともならず苦しくつらい山道を只一人道をさがして登り続けました。以下略」
この作品が後に宝塚歌劇の油脈になるとは植田でも考えていなかっただろう。

この公演で初舞台を踏み後に星組のトップスターになった生徒がいた。日向薫だ。
この頃の宝塚歌劇団事務所は年月を感じさせる古い建物の2階にあった。
木製のドアを開けると部屋の中に机が点在して左手奥が理事長室だ。
手前にプロデユーサーの机があり、あとは総務や宣伝が混在していた。
生徒も気軽に稽古の行き帰りなどには事務所の中に来て皆と雑談をして帰った。


演出家の部屋は別に小部屋があったがそこで何が出来るという雰囲気の部屋ではなかった。
「ベルサイユのばら3」二部三十場、
原作池田理代子、演出長谷川一夫、脚本演出植田紳爾、制作野田浜之助。
このプロデユーサーの野田が後にも先にも本当のプロデユーサーと言える人だった。
頑固そうな顔をしており、いかにもひと癖もふた癖もあるぞという感じがした。
後年野田を知る人は、どんな事でも自分が出かけて事を済ませる人だと話している。

宝塚歌劇のプロデユーサーは元来阪急電鉄の社員が人事異動でやってくるのが常である。
従って宝塚が好きで来るのではない。
判りやすく言えば電車の運行をしていた人が今日からプロデユーサーということである。
中には自分は宝塚歌劇に来る為に入社したのではないと、言い切る人もいた。

もう一つ各組の面倒を見る生徒監、通称生徒におとうちゃんと呼ばれる人がいる。
これはだいたい駅長を経た人が来るケースがこれも常である。
簡単に言えば生徒の雑務係りである。

インタビューも広報宣伝の担当者に依頼して時間を生徒にあけさす。
今回は北野が勤めている放送局が夕方に新しく設けたワイドニュースの中の目玉企画である。
頃は昭和51年3月のことだ。

北野は宝塚のタの字も知らない。それまで大阪府警担当で事件取材に走りまわっていた。
要は事件感覚で取材をしよう。生徒は大阪府警の刑事だと思えばいい、北野はそう考えた。

時の宝塚歌劇の4代スターは汀夏子、榛名由梨、安奈惇、鳳蘭であった。
娘役は遥くららをはじめ沢山いたが、男役から変身した大柄の遥くららの愛称はモックで、
愛称ツレの鳳蘭とのコンビは息がぴったりだった。

北野の知り合いの宝塚音楽学校で演劇を教えている人が天津乙女の主役で、
「くるるんるん」という芝居をするというので、いい機会だと思い
天津乙女を稽古場で取材することにした。

天津乙女はすでに理事で専科専属、小柄で生まれが東京深川だけにハキハキしていた。
フイルムのカメラでインタビューしていると途中でフィルム切れになり、
カメラマンがフイルムの入れ変えに手間取っていると、
乙女さんが貴方大丈夫なの、本当にカメラマンなのと聞くので、
カメラマンが思わずカメラマンに間違いありませんと答えたのが妙に受けた。

この組に後に花組のトップスターになる大浦みずきがいたが、
このときはまだ顔が丸かったのが印象的に北野の脳裏に焼きついていた。

「くるるんるん」は宝塚大劇場だけの宝塚友の会公演で東京には行かない演し物だった。
天津乙女さんの愛称はエイコさんで、これは鳥居栄子の本名からだ。
エイコさんは北野のインタビューに対し、昔はこうして直に聞くなんてこと無かったのよ。
劇団の誰かが聞きに来て答えを持っていったものよ、と話した。

でもエイコさんは北野の取材に対して、嫌悪は持たず好感を持ったようだった。

昭和51年頃の民放各社はそれまで、漫画などでごまかしていた午後6時台の放送枠を
心機一転して主婦向きのニュースにしようという方向に変わっていた。

北野はそのためそれまで誰も手をつけなかった、宝塚に目をつけたのだ。
宝塚歌劇が夢のアイランドに見えたからだ。

その頃、「ベルサイユのばら」で一気に人気沸騰した宝塚の舞台に立つには、
宝塚音楽学校に入らなくてはならない。その為入学希望者が殺到した。
競争率51倍、取材には格好な対象だ。北野はさっそくその受験風景を取材に行ったが、
何しろ中学3年以上高校3年までという年齢制限の中で受験するだけに、
学校に内緒で受験する人がほとんどのため、
テレビで顔がでる事に問題があり取材は不可能であった。

そこで音楽学校の合格発表を取材する事にした。
伝統ある音楽学校の校門を入って玄関の横の壁に合格番号が書いた紙が張り出されるのだ。

東京、宝塚で第一次の試験があり続いて宝塚で第二次試験、バレエ、声楽に課題曲がある。
なにしろ15歳か16歳から18歳までの女の子が、
緊張の中で試験場にはむずかしい顔をした劇団の演出家などが居並ぶ中
各科目をこなしていくのだから、大変だ。

バレエの試験の最中に転んでもすっくと起き上がり踊りを続ける子は採点がいい、
つまりひしゃげないで堂々としていると、これまた舞台人の素質ありと見てくれるからだ。

運が悪いと大きい子にはさまれ、さほど小さくないのに小さく見えてしまう運のない子もいる。
女の子の子供に近い年頃は顔が段々と変わっていく、
そこを試験官は見抜かないといけない、大人になった時の顔を想像するわけだ。


                内海重典

宝塚歌劇団の演出家、内海重典から聞いた話。
遥くららが受験した時、彼女は入る気も無かったというが、
試験場で見た彼女の顔は花があり可愛いい、
これぞ宝塚娘役という雰囲気があったという。
最終試験が終わり、彼女は受かる気も無いので、制服の寸法もとらずにいたという。
そして発表の日、受かっているのも知らずに花の道を歩いているところを
偶然、内海重典と出会い合格を聞かされた。
入学式が数日後なので、制服は間に合わないので、
上級生の古い制服を借り入学式に臨んだという。
このとき内海重典が彼女を花の道で見過ごしていたら、
その後の彼女の人生も変わっていたかもしれない。

遥くららの音楽学校入学の経緯を書いたら久々に遥くららさんから電話があり、
私の記憶ではこんなことだったと詳しく話してくれたので、それを此処に披露しよう。

遥くらら、愛称モックは親類両親の反対を押し切り受けるだけという事で宝塚音楽学校を受験。
そして父親と音楽学校の合格発表を見に行った。
仮に合格しても入学しないと父とは約束していたという。

ところが計算外に合格していたのだ。
それでも約束だから帰ろうという事で、合格した人はすぐに制服を注文するが、
それもしないで花の道を歩いていたそうだ。
それを花の道の横の建物の中のアベニューというコーヒー店から、
当時の理事長の荒木さんが見ていたらしく、秘書が呼びに来て、
モックは父親と荒木さんに会い家族が反対してるので、入らないと説明。
荒木さんは入ったらと言うので、それでは母と相談するという事で帰京した。

で、モックはそのまま高校二年生なので学校に通学していたそうだ。
そうしたら劇団から電話が掛かり、両親が考えた挙句に、
学校から帰ってきたモックもう学校にいかなくていいといわれ、宝塚に向ったそうだ。

そしてすみれ寮で当時の寮長さんが二年か三年上級生の持っていた音楽学校の制服の裾を
上げてくれて入学式に着ていく事が出来たという。


推測ではコーヒー店で荒木さんの傍に内海重典さんが居て、
花の道を歩いているモック親子を見て、あっ、あの子帰ってしまうぞ、
あの子は入学させないと惜しいと荒木さんに話したんだと考えられる。

荒木さんも内海重典さんも既に亡くなられているが、
その後のモックの活躍を見ると運とはそんなものなんだろう。
人生の総ては運だ。

  遥くららと植田紳爾    MBSナウ中継

後の話であるが、遥くららから聞いた話、
入団後TBSの朝のドラマに出ることになった。
これがかなり好評で、後に宝塚の舞台で彼女を見た人が
あの人はテレビ女優ではなかったのというほど間違えられた。
そのドラマに出る条件が実に可愛いく彼女らしい、
それはトップスのチョコレートケーキが毎日食べられる事だった。
後に毎日食べていたので彼女は太り、
このため宣伝部からトップスのケーキまかりならぬという
お達しが出てしまったというエピソードがある。


  白い本/植田紳爾  春日野八千代

宝塚音楽学校の合格発表は、4月のしかるべき日で時間は午前11時と決まっている。
校門前には一時間位前から何となく人がたむろし始める。校門の中には入らないのが面白い。
11時の時間が近づくにつれ人数は増える。
そこに生徒監の香川が合格番号を書いた紙を巻物状にして玄関から姿を見せると、
それまで校門外にいた群集がどっと前に出る。
香川が巻物状を掲示板に横にするすると滑らせると、
そのとたん歓声ともうめきともつかない泣き声が一斉にあたりを包むのである。

合格した人は泣き、不合格の人はそっと姿を消していくのが不思議だ。
北野は合格した女の子に気持ちを聞いた。マイクに向かって嬉しい、夢みたい、
スターを目指します、2回目なんです、いろいろあり放送するとものすごい反響があった。

やがて本科生が合格した方は中に入ってくださいと言うと、
そこで初めて合格者は我にかえるのだ。
中には自分で見に来る事が出来ないので代理の人に見にきてもらい、
合格と判るとホテルからあわてて駆けつける人もいる。
本科生も試験の時にすでに顔なじみになっており、
校舎の入り口で合格した人に、よかったねと声をかけたりしているのも面白い。

    入学説明/香川生徒監

ここから先は生徒監の出番である。親子で座らせ、保険証、印鑑、銀行は池田銀行にとか、
これだけは決して忘れては行けないとかこんこんと説明をする。
そして横の部屋で待ち受けている阪急デパートの店員が、帽子の採寸、制服の採寸、
着物の採寸と順次行っていく。合格した女の子たちの顔は緊張で心は舞い上がっている。

生徒監は香川。生徒監の仕事は校長の命を受けて生徒の日常の操行および勤怠に関して
一切の事務を監督すると学則で決められている。
彼が指導する入学式の予行練習の特訓が数日後にある。

合格者と親を前に香川は
「これからは私が皆さんの親代わりです。
びしびし躾ますからそのつもりで覚悟してください」

そして香川は予科入学式前の準備についてと書かれた一枚の紙を配った。
それには入学式前に準備しておくもの、入学式当日持参するものが細かく記されている。
特に学校地番と自分の持ち物には必ず氏名を記入する事、印鑑は必要とするので
本人に必ず持参させる事の3ヶ所に傍線が引いてあった。

入学式の予行練習は入学式の前日、そして入学式を迎える。
女の子達が夢にまで見た宝塚音楽学校生徒としての入学式では、
あの合格発表時のまとまりの無かった女の子達は香川の指導で見事な予科生に変身していた。

グレーの制服に身を包んで長かったり、中途半端な髪は短く、
或いは長髪はピンでぴっちりととめられている。そのピンの100本といわれた。

起立、着席、香川の一声で予科生は一人の乱れもない動作を見せた。
座る時でも座ったら身動き一つしない、背もたれに背中をつけない。
背筋は全員しゃんとしている。
顔にぶつぶつがある子が目立つ、環境の変化であろう。 

それもそのはず、今までまったく違った生活をしてきた女の子40人が
同じ生活をするのだから人生の文化革命である。

入学式の最後に本科生から一対一で念願の音楽学校の校章を胸に着けてもらい、
その位置とかその他の注意を言われるのを聞きながら涙を流している予科生もいる。
これが最大の入学式の行事だ。

これで2年間無事過ごし卒業出来れば、
夢のアイランドは向こう側にある宝塚歌劇団に入団出来るのだ。

香川の娘も花咲かおりという芸名で宝塚歌劇団生徒であった。
北野は熊野宝塚音楽学校校長に後に入学者に有名人の子供が居たら事前に教えて欲しいし
全体の内容説明もして欲しいと頼むと、熊野校長は軽く引き受け
それ以後合格発表前にメデイアに教室でレクチュアが行われた。

この頃の宝塚音楽学校校則は学科課程と授業時間をこう決めていた。
音楽は声、器楽、音楽史、音楽理論、舞踊は日本舞踊、西洋舞踊、現代舞踊、体操、
演劇は朗読、演技、台詞、演劇理論、教養は文化史、芸術理論、時事、礼儀作法で
授業時間は予科40時間、本科40時間となっていた。

入学志願者については次の事を考査して選抜すると記されている。
容姿、即往の学業操行、芸能の素質、人物、身体。
月曜日の朝一時限には学科課程にない朝礼が本科予科共に合同で行われた。

八十何年続いてきた宝塚音楽学校予科生の仕来りは、
ボールペンの字の太さから色文章を何処できるかはじめ山ほどある。
朝の掃除は分担が決まる。
だれそれは何処と、玄関前掃除は何故か有名人の子女がこの任に当たらされた。
午前6時半には学校へ行く、校長室の花の取り替えの花は前の晩に買わなくてはいけない、
夏などはそのままでは枯れてしまうので、冷蔵庫に入れておく、生活の知恵である。
ところが運悪くこの花が茎から折れてしまった。
買い換える時間はない機転の効く子は折れた茎に虫ピンを入れて折れたのを誤魔化すのだ。
これも芸のうちである。

ガムテープでゴミをとるのはここの伝統芸だ。
朝礼、鼓笛、日舞、琴と授業は続くが睡魔が襲うし、お腹も運悪く前の晩食べそこない空腹だ、
こうした場合は密かに懐にチョコレートを忍ばせ、
授業中に巧みに間髪を居れずに食べるのである。

これも芸のうち?昼になり昼食だが時間は30分も無い。
玄関前に店を開くパン屋さんにいきパンを食べながら午後の授業の為の浴衣に着替える。
これも早替わりの稽古に通じるのだ。
意地の悪い本科生は掃除などでミスのあった予科生がパンを買いに来るのを見付け、
パンを食べるヒマがあるのと遠まわしの言い方をする。
いわれた予科生は昼食を食べるわけには行かない結局昼食抜きである。

生徒監の香川は鼓笛を担当していた。
鼓笛は集団には欠かす事の出来ないチームワークをこれで養えるからだ。
成績1番の生徒が指揮棒を振る、以下それに従い
舞台の上でそれぞれの体勢をきめながら動いていくのだ。
香川の授業は一段と厳しく大声が更に大きくなる。
しかしこの大声に鍛えられた生徒達は、大劇場の舞台でめりはりのある動きができた。

後の話だがこの香川の鼓笛授業がなくなるのである。
鼓笛が無くなるという事は香川の生徒に対してのはりも無くなった。
それと共に鼓笛をしなくなった生徒は、宝塚大劇場での舞台稽古の時の位置決めをするときに
チームワークに欠け、なかなか出来ないという弊害が生まれたのだ。
香川の厳しい鼓笛こそが宝塚歌劇生徒の総てを作り出す基盤なのであった。

予科生が上級生に話をするのにも仕来りがある、
上級生のいる部屋の前でお目当ての上級生が出てくるのをじっと待つのだ。
出てきたら、失礼しますといって話す。
何事も失礼します、失礼しました、で始まり、終わる。

 第2回に続く

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第2回

宝塚音楽学校生徒五箇条のご誓文ごときの11か条の決まりごとがあった。
これは親にも言わない見せない事になっていた。<昭和54年当時>

1、袋。 阪急百貨店の紙袋等(紺、黒)地味であれば生地はなんでもよい。
   靴。 黒のかかとの低い革靴(校外)上履き 鼓笛シューズも使用(校内)
   靴下。 白い三つ折りソックス、冬はグレーの団結ハイソックス、
    ストッキングのみは禁止

   傘。 レインシューズ 地味で学生らしいものフリルは禁止。
   コート類。 規定されもの。
   制服。 中腰で床につく程度の長さ
    ネクタイは幅7.5センチ
     ベルトは左から右に通し先にホックをつけ固定させる
    見えないようにピンを3〜10本つけておく。

   バッチ。 第2ボタンと第3ボタンの間に校章をつけ、
    その約1センチ上に名札をつける

2、髪型。 ショートカット 校内では前髪がたれないようにピンで留める、
  耳もきちん
と出す。         
  長い髪 三つ編み、
三つ編みできない人は後ろで二つに束ねる。
   袴。 紋付(一尺五寸)色物(一尺八寸)足袋は五枚こはぜ、
  巾着、ぞうりは地味で低いもの

   お正月三が日以外に着たいときは先生と本科生の委員の許可がいる。
   校章をつけること、絞り(重ね襟、だて襟、かけ襟)禁止
   私服。 スカートで普通の学生らしいもの
   長さは制服位の丈までミニはなるべくさける
   薄化粧はいい(口紅、ピンク、オレンジ、アイシャドウはブルー、グリーン)
   かつら、サングラス、ツケマツゲ、アイライン禁止
   パンタロン、ジーパンは禁止
3、日舞。 夏は浴衣、冬はウール、帯は文庫結びのみ、足袋は4か5枚こはぜ、
  舞い扇、楽屋襦袢、ステテコ(本駅の馬六、サンビオラすいえん)
  帯の左わきに名札をつける。

   バレエ。 レオタード(黒か紺でフリル、ノースリーブ禁止)
  胸に4×8センチの名札つける。
  タイツ、バレエシューズ、トウシューズ(白かピンク)

   体操。 レオタード、レガータイツ(白かピンク)、シューズ、体操着
   タップ。 レオタード、タイツ、タップシューズ
   声楽。 コールユーブンゲン(大阪開成館版)コンコーネ
   ピアノ。 自分の使っているもの。
4、校内での行動
   校門では黙礼して入る。
   廊下、階段を歩く時は壁側を1列に歩く。笑ったり、喋ってはいけない、走らない。
   ジュースは一人1個、ルームで飲む事、昼休み放課後のみ。
   電話は休み時間にいつでも使用してよい。
   土足厳禁―講堂、各教室、三階への階段から上。
   足袋やタップシューズ、バレエシューズ等で廊下は歩かない、上履きを必ず使用。
   1階トイレではノックをして前で待つ、
  3階トイレではノックをせずドアの前ではなく、下で待つ、
  トイレットペーパーの先は三角に折る。

   自主レッスンは掃除をはじめるまで(一番早い掃除が始まるまで)と
  授業終了後8時
20分まで(別科が終わる20分前まで)
  廊下のピアノは6時以降使用禁止、
  後は
別科のじゃまにならない教室で。
5、ルームでは静かに、ドアも開け放し禁止、開閉静かに
  (自分のロッカーも静かに開閉
する。
   本科ルームは電話のあった時や先生がよんでいらっしゃているような緊急の場合だけ
  軽くノックしてよい、のぞいてはいけない。

   手は手のひらを開いて5本の指をきちんとつけてスカートの横の線に中指をそわせる、
   手を上げる時も同様。
   シャワーはAのみ使用、下の棚を使う。
   当番の仕事
     ルームのかぎを開ける
     電源を入れる
     香川先生の机から日誌をとり放課後提出(なるべく早く提出する)
    朝ルームのゴミを捨てに行く
     ルーム、掃除機の掃除
     紅梅、白梅に水をやる。
6、あいさつについて
   始業前(9時まで)「おはようございます」一度挨拶したら後は黙礼、
  団体の時は先頭の者だけが挨拶(または代表)

   9時以降黙礼(生徒間だけ)
   本科生の授業が終了した後「お疲れさまでした」
   休日「おはようございます」「お疲れさまでした」時と場合によって判断
  (終演後や寮でくつろいでいらっしゃる時などは「お疲れさまでした」)

   部屋に入る時「失礼します」出るとき「失礼しました」
   ノックのいらない部屋、楽器庫、倉庫、ルーム、トイレ。
7、予科ルームにノックがあったらノックのあったドアから出る。
  静かに両手で閉め終わってから時間に応じた挨拶をして

   おはようございます、黙礼。お疲れさまでした。失礼します(用件を聞いてから)
   少々お待ちください。失礼しました、黙礼。お疲れさまでした。
   呼び出された人がいない時は
   失礼します。
   今いませんが探してまいりますので少々お待ちください。
   失礼しました。
   本科生に用事のある時、
   予科ルームの前の壁に立て通るのを待って時間に応じた挨拶をして、
  失礼します。
   誰々さんはいらっしゃいますでしょうか。
   お願いします(礼)
   失礼しました(礼)時間に応じた挨拶。
8、廊下に並んでよい時間
   朝8時30分から50
   12時0分から1時
   廊下には個人的な反省では並ばない、本科生に個人的に注意を受けたら
   「すみませんでした、有難うございました、失礼しました」とその場であやまる。
   先生、本科生より先に帰るとき(時間に応じた挨拶をして)「お先に失礼します」
9、掃除について
   始める時
   おはようございます、失礼します。
   お掃除を始めさせて頂いてよろしいでしょうか、失礼しました。
   終わる時
   失礼します。
   お掃除終わらせて頂きます。
   失礼しました。
   ピアノ使用中の時
   失礼します。ピアノを拭かせて頂いてよろしいでしょうか、失礼しました。
   拭き終わり
   失礼します(ピアノを)拭き終わりましたのでどうぞお使いください、失礼しました。
   タオルやシューズが置いてあった時
   失礼します、床を拭く為タオルを移動させて頂いてよろしいでしょうか、
  失礼しまし
た。
10、ルームに鍵を取りに行く時(脱帽ルームの壁がわに荷物を置き)
  職員室にいらっしゃる先生に

     失礼します、予科ルームのかぎを取らせて頂きます、失礼しました。
   観劇日の注意
     帽子は取る(客席に入る前)
     背中をつけないで姿勢よく
    飲食禁止
   オペラグラスの貸し借り禁止
      公演中プログラムを見てはいけない
      お客様が出られるまで帰らない
      観劇日以外は私服着用
11、校外の行動
   電車、レストランでは座ったまま礼
   追い越す時(先生、上級生)(挨拶)お先に失礼します。
   先生や上級生の方が重い荷物を持たれている時
   (挨拶)失礼します、お持ちします。(荷物を返した後)失礼しました。
   入ってはいけないお店
    飲食店
      ちどり、一の瀬、保名、チェック、むつみ
    美容院
      ファンファン、キタノ、ユリ
    通ってはいけない道
      花の道、コーポラス前の道
      今津線、宝塚線では最後部車両に乗車、座席にはお客様優先。
      改札口では挨拶をし自動改札機を使用。
      外での行動は二列以内できちんとした態度で。
      モダンダンスの個人レッスン禁止

しもた屋風のちどりは劇団のすぐ横にあり専科、上級生の溜まり場であり休憩場であり
自主稽古場でもあった。稽古中でも時間の空いたときなどは皆ここにきて休んだり、
食事をしたりして、まあ言って見れば生徒たちの自宅代わりであったかも知れない。
一の瀬も同様であった。

従ってファンの決まりでもあり、フアンはここには立ち入らなかった。
入学式を取材し始めたら当然卒業式も取材の対象になった。
この頃になると、音楽学校の合格発表の30分前に校長の熊野から、
今回はこんな師弟が合格者の中にいますと事前の説明が行われた。
取材する方もその方が間違いもなくスムースに取材が出来た。

双子が入学するというので、北野はこの2人をニュースでフォローアップしようと考えた。
佐藤由恵と陽子16歳。
卒業の朝宝塚大橋の上でインタビューすると2人揃って、
頑張ろうと思いますと同じ答えが返って来た。

佐藤由恵の芸名が春野亞衣梨、佐藤陽子の芸名が春野亞里紗、
母親が春日野八千代ファンだったので春日野から春と野をもらったのである。


北野は何も書いてない一冊の本にこれという生徒に宝塚について
素直な気持ちで書いてもらう事にした。
それを白い本と名づけた。

今の私の中で宝塚の存在、大きい・・・でも少し前までもっともっと大きかった
宝塚に振り回された生活これから先だんだん小さい存在になっていくのかな…
春野亞衣梨 白い本より。

気が付いたらそこに愛とロマンの宝塚がありました。大好きな宝塚、時々大嫌いな宝塚、
宝塚に入れた事心から感謝します。 春野亞里沙 白い本より


北野はこの双子の卒業式、初舞台、双子の出る各公演を宝塚の双子と言う事で
その都度ニュースに取り上げたので
後にトップスターより世間に知られるようになったのは面白かった。

宝塚音楽学校に入学しても今までまったく違う家庭環境で生活してきた女の子40人が
いきなり集団生活を始めるのだから総てがカルチュアーショックの連続で始まるのである。

中には1週間で家に帰ってしまう生徒もおり、
この様な生徒は二度と戻ってきませんねと香川が北野に話した。

中には毎日家から弁当を持って学校に行くのであるが、
学校は欠席でどうしていたのかと聞くと
生瀬の川原で弁当を食べて何食わぬ顔をして帰宅していたのであった。

この双子の65期にはトップスターになった杜けあき、
娘役トップになった南風まい、春風ひとみ、などがいた。


片岡孝夫、後に仁左衛門を襲名するが彼の長女の幸子が(汐風幸)
宝塚音楽学校に合格し入学した。
北野は幸子にインタビューしたがタオルを顔に当てたまま泣き止まず
テレビにはタオルで顔が隠れたまま放送となった

北野は孝夫とは取材を通じて親しくしていた。
ご承知の通り宝塚音楽学校にはいろいろと仕来りがあるので、
北野は幸子の為に月組の麻路さきを宝塚ホテルの幸子の母親の部屋で密かに待機してもらい、
そこで事細かく音楽学校の実情を説明してもらった。
字を書くボールペンの太さからレポート用紙、其れにどう書くか、行数はなどなどである。
入学したての生徒たちは皆必死だ。

生徒達は宅急便の送り状を山ほど手元に持ち、毎日宅急便で洗濯物を自宅に送り
洗ってもらって送り返してもらうという事をしていた。洗濯する時間も無いからである。

俗に音楽学校に入学する40人の生徒の中からスターになれるのは1割といわれた。
卒業式でみどりの袴をはいた本科生の心はうきうきしている。
午前中に卒業式を終えると午後には宝塚歌劇団の入団式が控えている。
それで夢のアイランドには入れるからだ。

はれて宝塚歌劇団団員、技芸員、生徒、タカラジェンヌと呼ばれる資格が得られる。
宝塚には先生は小林一三只一人で、従って団員は生徒と幾つになっても
呼ばれるのだ。

 第3回に続く

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第3回

北野の友人で写真家の竹内広光が宝塚の演出家の写真を撮りたいと言い出した。
彼は写真界の大御所岩宮武二の弟子であった。
日頃は猫の写真やエフワンの車の写真を撮ったりしていたらしい。
北野はそのあたりをよく知らない。

早速劇団の宣伝を担当していた大西八州男にその旨伝え了解を取った。
撮影はあくまで演出家が中心である事と。
その頃の宝塚は内部の写真を撮らせるということはなかった。

竹内が写真家なので許可したのかもしれない。
さっそく稽古に入っている演出家から撮りはじめた。

演出家が何人いるかも判らずにはじめたと言うのはそんな事を言っていたら
全部の演出家の稽古場が取れない人も出て来る、つまり年に1回しか出番のない人もいるからだ。

劇団事務所に演出部と書いた黒板があり、演出家はそこに名前が書かれていた。
白井鉄造
高木史朗
渡辺武雄
内海重典
植田紳爾
小原弘稔
菅沼 潤
横沢秀雄
阿古 健
草野 旦
川井秀幸
岡田敬二

大関弘政
酒井澄夫
柴田侑宏
助手には三木章雄、中村暁、村上信夫、太田哲則、小池修一朗、正塚晴彦、谷正純、
石田昌也、中村一徳、木村信司等が居た。この助手も後年演出家になる。

白井鉄造は稽古が無い、丁度音楽学校の入学式に出席するのでとりあえず撮影した。
背筋をしゃんと伸ばして時代を感じさせた。

北野は白井鉄蔵造に関しては奇異な印象がある。
それは北野が白井鉄造演出の芝居があることを知り取材する事にしたときだった。
宣伝担当の大西と話し稽古のある日に早めに白井鉄造に事務所に来てもらった。

理事長室で北野は
「白井さん、稽古についてお話を聞きますが、稽古しているところで
マイクを持っていきますので、そこでお願いします。」
と取材内容を細かく説明した。
白井はふちなしのめがねの中で老人らしい目で
「判りました」とうなずいた。
北野は白井と直接話をするのは初めてだった。
この人があれだけの名作を生んできた人、宝塚の神様と言われる人かと思うと緊張した。

稽古は一番教室、早めに稽古場にカメラマンとともにあがり用意して待った。
やがて稽古は始まり、北野が白井と打ち合わせた頃合になったので
カメラマンにスタンバイをかけマイクを持って白井に近づいた。

白井は差し出すマイクにいきなり「僕出来ない、出来ない」を連発、目には涙がたまっている。
北野はどうなったかわからないまま、カメラマンに、やめようと声をかけた。

あれほど事前に打ち合わせしていたのに、出来ないという白井の理由が北野には理解出来なかった。
勿論宣伝の大西にもわからない。
ガラス箱の中みたいな所でしかいない人がいきなり現実世界に遭遇した為か?
何故出来無かったのか、謎のままである。

高木史朗(本名高木四郎)は丁度「わが青春マリアンヌ」という作品の稽古に入っていた。
花の道を歩く高木史朗を撮影しようと言う事で、北野は竹内広光に頼まれ
高木史朗の撮影の合い間話し相手をした。

「僕はね、後継者として育てた鴨川清作に死なれて、もう何の望みも無いんですよ。
昔ね、僕、宝塚を止めようと思い小林米三さんの部屋を訪ねたんです。
そして辞めようと思うんですがというと米三さん、君が辞めたら僕はどうするんですと言われ
思わずその一言で辞めるの辞めたんです。あの人にそういわれたんで辞めそこなったんです。
あの人は心の温かい人でした。」

北野は会った事もない米三の人柄をこの言葉からにじみ出るように感じた。
高木史朗と北野は会話できて良かったと後に思った。
宝塚の宝みたいな白井にしても高木にしても会話できた事は後の宝であった。

勿論竹内は花の道を独特の歩き方で歩く高木史朗をサクラを背景に撮った。
高木はその後バウホールで「刀を抜いて」という芝居をしたが、
昭和60年2月12日心不全で宝塚の児玉病院で亡くなった。

レビュー作家高木史朗の作品と言えば、70万人を動員した『華麗なる千拍子』につきる。

夕方のワイドニュースでの北野が企画した宝塚の「ベルサイユのばらV」は話題となった。
見る人にいろいろな趣向が受けて視聴率もいい。

その頃宝塚歌劇の取材はタブーと思っていた人が、
メディアの中に何故いたのかと北野は思うほどだった。

そして未だした事のない稽古場からの生中継を考えた。
野球中継以外した事がない中継班はマイクロの確保からしなければならない。
稽古場の屋上からマイクロ発信の機械を持ち込み電波を飛ばした。
それを千里丘のスタジオで受け、パラボラアンテナの向きを無線を通して
千里丘の方に向け調整するのである。
これで中継は可能となった。
中継は一番教室で稽古中の柴田侑宏作演出の「星影の人」、雪組のトップスターは汀夏子である
勿論沖田総司は汀夏子、土方は麻実れい、玉勇は娘役の高宮沙千だ。
演出の柴田はプログラムにこう書いている。
「女性ばかりで演ずる特殊性から、武骨さを避け、激越な動きを抑えて、
娯楽的な色彩でまとめようと試みたが果たして如何」
この考えが宝塚歌劇には大切な事でありこの考えが継承されてきたから、
夢のアイランドと宝塚歌劇は言われてきたのだ。

生カメ(中継用カメラ)2台を稽古場の裏の階段から持ち込み生放送に備えた。
稽古をしている最中に中継のカメラリハーサルは何回も行われた。
北野は中継車のディレクター卓と現場を行ったり来たりして本番前には息切れしていた。
何しろ稽古場は三階中継車は一階なのだから。


本番は稽古風景があり、そこにアナウンサーが入り込み話を聞く。
更に演出家の柴田と汀に聞く。そしてまた稽古にはいるという手はずだ。

放送が終わると、何しろ今まで生中継で宝塚の稽古場も生徒の稽古風景も
門外不出だっただけに反応は凄かった。

この頃になると北野の担当している夕方のワイドニュースは
宝塚と佐土の相撲と奇形猿をフォローしている村上の企画が話題の中心となった。

初舞台生の振付は、喜多 弘と決まっていた。
熱血漢、一直線の男である。
若い時事故で片目を失って義眼であるが、生徒にはそれがどちらの目か判らない。

喜多の振付はきびしいのでも知られている。
当時は喜多の稽古場は関係者でも入るのをはばかったぐらいである。
表現は悪いが、ある限りの暴言が生徒に飛び交うからだと劇団関係者が北野に話した。

およそ50秒のロケットであるが緊張の塊の初舞台生にとっては大変である。
喜多の方も踊れない生徒を踊れるようにするのだから大変だ。

テンポをとるのに小太鼓を使って稽古をするが、振りを間違えた生徒のところには、
容赦なくこの小太鼓のスティックが飛んでいくが、
喜多が義眼なのでどっちに飛んでくるかが問題で、自分かと思うと全然違う方に、
又これをよけるのも生徒の技術でもあった。

初舞台生のロケットは一通り出来た所でお披露目と称する内部の関係者に見せる行事がある。
このときはメディアにも公開する。

喜多の生きがいもここにある。喜多は何時も微笑みを忘れるなと生徒に言いつづけた。
笑い顔を作る時はお母さんと言うのだ。そうしたら顔がほころぶ。
その成果を見せるのがこのお披露目なのである。

ロケットの指導には上級生の研5の生徒が5人助手としてつく。
広い一番教室には予定の時刻になると、
理事長以下劇団幹部がメディアが鏡を背にした長椅子にずらっと居並ぶ。
その目と鼻の先ぐらいの所で踊るのだから、初舞台生の緊張は並みのものではない。

喜多の稽古にはスペシャルと称する特別なものがある。
出来の悪い生徒は一人で全員の前で踊らされる。
心臓の弱い子などはたまったものでないし、できないと先に進まない。

今お披露目に当たってはそんな厳しかった事も忘れ、やりこなす事だけに神経は集中している。
「全員整列」
喜多の声で初舞台生40人は黒のタイツ姿で並ぶ。
胸には芸名を書いた白い布地が縫い付けてある。顔の表情はまだ幼い。
何処に未来のスターがいるのかと思わせる。

助手がテープを回すと、初舞台のロケットの音楽が流れる。
喜多はそれに合わせて小太鼓を打つ。生徒の顔は笑みを無理やり作りながら無我夢中で踊る。
いよいよ最後の銀橋の所を通り、すそに入るラストに差し掛かる。
稽古場の右側の奥に生徒の塊が出きる。
その瞬間に初舞台生は一斉に泣き出した喜多も泣いている。
指導助手の上級生も泣いている。見ている人たちの中でも泣いている人がいる。感激の一瞬である。

喜多 弘にはこの感激が何にも代えがたい苦労の賜物であった。

同期の絆は此処で更に強くなり、喜多への信愛度が深まる。
そして踊りに対しての厳しさが生徒の体の中に染み付いていく。伝統はここから継承されていった。

「宝塚の踊りは女が男を演じるのですから、男役の子の踊りもどこかで女と切り替えないといけない、
そこがここのテクニックです」
喜多はぽつりとそう語った。
ロケットの稽古最後の日に、喜多は生徒全員を集め、何期と書いた黒板をはさんで恒例の記念写真を撮った。
取材に来ていると北野にも自分の席に座れといい,喜多がカメラのシャッたーを押した。

北野の白い本に喜多はこう書き記した。
〈宝塚のモットーは清く正しく美しく、自分のモットーは誠意と根性とそして努力を、
これは何年か前の初舞台生の為に考え出したものだが最も適していると思う。
自己満足し毎年初舞台生にも筆で書き伝えています。
伝統ある宝塚の歴史を汚さぬよう、
そしてレビューを守り続ける為に若いヒナ鳥と燃えて汗を流す、
この繰り返しだがやっぱり宝塚にいてよかった。死ぬまで宝塚を愛し結局は好きなんだナとつくづく思う。
宝塚は永遠なりです。初舞台生のおやじ 喜多弘昭和61年3月〉

厳しい中にも宝塚ファミリー的ムードをスタッフも劇団事務所の人たちも持っていた。
生徒の心にもゆとりができ和んだ。


退団生徒と喜多弘 朱里みさを

喜多弘自身の記録によると宝塚歌劇団での最初の振付は
昭和37年「僕は君」で、トップは藤里、内重だった。

喜多が命をかけていた初舞台生のラインダンスは
昭和39年50期、白井鐵造で「花のふるさと物語」が初めてだ。初舞台生は汀、鳳、大原。

昭和44年55期 高木史郎「シルクロード」有明、洋、有花
昭和46年57期 小原「ジョイ」横澤「オービューティフル」
昭和47年58期 鴨川「ザ・フラワー」峰、高汐、真汐
昭和49年60期 白井「虞美人」大浦、剣、遥
昭和50年61期 内海「ラ・ムール ア パリ」朝香、桐、若葉
昭和51年62期 植田「ベルサイユのばら」日向、瀬川、奈々央
昭和52年63期 植田「風と共に去りぬ」あずみ、真笛、旺
昭和55年66期 内海「フェスタ・フェスタ」安寿、梢、こだま
昭和56年67期 岡田「ファーストラブ」真矢、涼風、毬藻
昭和58年69期 横澤「ムーンライトロマンス」麻路、神奈、友麻
昭和59年70期 植田「風と共に去りぬ」大輝、詩乃
昭和60年71期 植田「愛あれば生命は永遠に」轟、華、大潮
昭和61年72期 植田「レビュー交響曲」
昭和62年73期 大関「サマルカンドの赤いばら」
昭和63年74期 岡田「キスミーケイト」
以上の記録は、ある時喜多が北野に何気なくくれたメモ書きであった。
もちろんこの後にも何回かはしている。
北野は喜多と何となく意気投合していた。
多分いつも初舞台を取材することで宝塚歌劇の良き理解者と感じたのかもしれない。
あるいは同じ仲間と思ったのかもしれない。北野にしてみれば嬉しかった。

麻路を何時も取材しているのを知った喜多は「ねえマリコが辞めるときは涙しましょう」と北野に話した。
喜多が最後にロケットの振付をしたのは85期。
この時の初舞台の日の朝の稽古では久々に舞台稽古を見にきた北野を驚かせた。
初舞台生がラインダンスの列のそこここに入り込んでくる。
初めはそのような振付と思っていたらそうではない、出遅れだ。

見ると裸足の生徒がいたり、ストッキングの線が曲がっていたり、もう滅茶苦茶。
後で聞くところによると初舞台生が上級生の舞台に見惚れていて、気がついたら出番だ。
一斉に衣装付けに40人が押しかけては間に合うはずがない。大パニック状態になったらしい。
その結果が衣装付けるのも間に合わない生徒がそのまま舞台に向かったのだ。

北野は喜多に声をかけた。「どうしたの喜多さん?」喜多は無言のままだった。

竹内広光の撮影も北野に叱咤激励されながら撮影が続いた。
写真展は大阪梅田の富士フォトサロンですることが決まっていた。
北野は当たり前の写真展ではつまらないから、美術評論家の増田 洋に飾り付けを依頼した。

増田は、作者が生きているとやりにくいんです。いろいろ口を出して来るからといった。
北野は竹内に、「じゃ竹内さん死んで」と言うと、彼は悲しそうに「僕死ねばいいの」とつぶやいた。
北野は増田に油絵の展覧会風にして欲しいと言い、
増田は竹内の芸術意欲を表現する為、赤い壁、青い壁を設け、演出家の席、上級生の席、
下級生の席稽古場、演出家の顔などと個性的なコーナーを設けた。

その頃の宝塚は内部なんて見せた事がない。展覧会を見にきた人たちは、本当に稽古してるんだ。
演出家もいるという、今では信じられない発言の連続であった。

写真展は連日押すな押すなの賑わいで成功した。宝塚を竹内は情報公開したのだった。
竹内広光は毎日グラフに掲載したいと話していたとき、
北野の陰ながらの理解者である、その頃劇団の編集にいた橋本雅夫が、
「これは本にしましょう。表紙の固い丸まらない写真集に」といい表現をしてくれた。

内部の写真集を当時出すなんて稀有な事で広報担当であった田中拓助が使う写真を
会議室のテーブルに並べ、検閲(?)方々選定した。おおむね竹内の意見が受け入れられた。

竹内が開いた写真展のパーティーでは彼の師匠格である写真家の岩宮武二が来て、
日頃レースの写真しか撮っていない事を知っているので、
これは竹内の写真ではなく、北野の写真だよ.と言って冗談ぽく笑った。

このパーティーに高木史朗演出「わがの愛しのマリアンヌ」に出ていた世れんか来たが、
その後彼女は悪性腫瘍で亡くなり、高木史朗も岩宮武二も竹内広光も死んだ。


大相撲の土俵のようにこの頃の宝塚は汀、鳳、榛名、安奈の四本柱があった。
冬といい夏といい楽屋口にはファンが詰め掛け、
熱風がその辺り一帯に漂っているかのように感じさせた。正に夢のアイランドだ。

北野は汀がトップで麻実れいが二番手の公演で、終演後の楽屋からの生中継を企画した。
公演は午後6時に終わる、放送は午後6時から始まる。丁度タイミングがいい。
楽屋口はファンで一杯だ。熱気でむんむんしている。
北野がマイクを持って楽屋からの生中継である。楽屋で舞台の幕が下りるのを待ち、
舞台から楽屋に戻ってきた汀、麻実にマイクを向けそのまま外に連れ出した。
そして外にいるファンの一人を夢の通路?を通って汀に麻実に会わせた。
ファンは卒倒しそうな死んでもいいという顔をした。

汀も麻実も化粧が汗で流れていたが、それが宝塚の本当の姿とファンは受け取った。
北野は徐々にベールの向こう側にある夢のアイランド宝塚の幕を揚げ始めた。ヒューマンが溢れていた。 

テレビ中継、ニュースの取材と宝塚歌劇団も世間に真実を知らすいい機会と感じたようであった。
同じような番組をしている他局も追従しはじめた
民放もまだ古い感覚の時代にあり、生中継で喋るのはアナウンサーと決めていただけに、
アナウンサーでない北野が現場から喋るというのも、かなり画期的であった

生徒には本名、芸名と愛称がるのを北野が知ったのはそれから暫くたってからだ。
生徒の一人で愛称がアトムという人を知ったのが初めてであった。
体が大きい生徒で鉄腕アトムからが愛称の由来であった。北野が直接本人から聞いた話である。

えいこさん、つまり天津乙女さんの芝居「くるるんるん」を北野は取材してから
親近感を持つようになった、気さくなえいこさんは隣のおばさんという感じがした。

天津乙女芸暦60年を祝う会が宝塚ホテルで開かれ、北野はこれをニュースで生中継することになった。
会場には各界の知名人含め400人位がお祝いに集まり、
司会が鳳蘭で天津乙女さんは舞台で祝いの舞を舞った。
そこに北野がマイクを持って割り込む。マイクを向け、60年経った今の気持ちはと聞くと、
えいこさんは息の乱れも見せずにこう答えた。

「経っちゃいましたね。60年なんて思わないけど経っちゃいましたね。胸が一杯なのよ。
うれしくて、でもこうしてできるのも歌劇団のお陰で、踊らさないて言われれば出来ないし」
北野が後どのくらい踊りますかの問いに
「足や首が動かなくなるまで踊るわよ。皆さん本当に有難うございます」と答えた。
その顔は美しく輝いていた。

その後えいこさんの自宅を訪ね、インタビューしている時の写真にサインをお願いした。
朝早かったせいかネルのパジャマで気軽に出てきて、マジックペンでサインをした。

後日再度お宅に伺った時、稽古場の見事さと裏庭の松林が美しく、更に玄関が和風でつい
「ここで和風喫茶とビヤガーデンしたら」と言うと、えへへへと笑っていた。
それでも「夜は貴方のとこのニュース見てるわよ」と言った。

そんな話を鳳蘭に話をすると、彼女はえいこさんに北野とそんなに親しいのと聞いた。
すると、「うんうんなんかあっちが親しくしてくるのよ」と言っていたと笑い話になった。


鳳蘭の話。
舞台が終わってその舞台にはえいこさんも出てらしたのですが、
私は仕事がその後あったので早くお風呂にはいりたかったの。

でも上級生順だけどいいかと思い、お風呂場にいくと丁度一箇所場所が開いていたの、
本当はそこはえいこさんの所だったんだけど、急いでいたのでいいやと思い
そこで頭を洗っていると突然、「だれや私んとこにいるのは」と言う声が聞こえたの。
で足からずうっとパンアップうるとすぐ膝で短い足、ああ、えいこさんだとわかり、
「先生すみません、仕事があるので」と言うと「ああツレチャンか」と言い、
これはいけないと急いで自分の身体を洗い、「先生洗います」「有難う」で背中を洗い、
短い両腕を洗い、いよいよ前しかない、どうしようと思っていたら
「ツレチャンもういいよ」と言われ、ああ前を洗わないで助かったという。

えいこさんにまつわるエピソードがある。
天津乙女さん、ある時北野に
「私舞台に一緒に出ている人で退団しようと考えている人は判るの」と言ったのが印象的だった。

天津乙女が亡くなったという連絡を受けた北野は、
武庫山のえいこさんの自宅にタクシーで駆けつけた。
座敷の布団の中で小さな体の栄子さんは静かに横たわっていた。
枕元にローソクが一本灯っていた。
「経っちゃいましたね」芸暦60年の会の時のえいこさんの言葉を思い出した。

栄子さん死んじゃったの、淋しいね、北野は心の中で別れを告げた。
昭和55年5月30日だった。
北野は天津乙女舞台六十年舞踊詩「宝花集」の清姫の天津乙女を思い出した。
相手の安珍は但馬久美だった。芸暦六十年の総べてをこの舞台で見せてくれた。
楽屋の鏡の前で出番を待つ間栄子さんは煙草を吸っていた。

「煙草吸っているとこ撮っちゃダメよ」と言って北野の顔を鏡の中から見た。
葬式の日曇りで今にも雨が落ちてきそうな天気だった。
自宅前にテントが張られ葬式の参列者はここに座り待った。ふと前のほうがざわついた。
見るとテントの上に白い蛇が居た。皆はいっせいに栄子さんだわと口にした。
清姫を演じたからだ。気が付くと蛇は居なくなっていた。
北野は神式の祭壇にお参りを済ませ出口を出ようとしたとき
先ほどの白蛇が出口でまるで会葬者にお礼をするが如くにいたのだ。
ふと栄子さんが変身したのかと北野は思った。

劇団葬は6月18日にバウホールで執り行われた
劇団葬と言えば白井鉄造の時も昭和59年1月18日にバウホールで
白井鉄造自身作詞の、すみれの花咲く頃のメロデイーが流れる中で執り行われた

その後理事長の市川安男、演出家の内海重典が亡くなった時の葬儀はバウホールは使用されてない。

 第4回に続く

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第4回

すみれ寮とは宝塚歌劇団の生徒のための寮で第一、第二、第三とあり、
ここに宝塚音楽学校の生徒も入寮している。

音楽学校の生徒は原則、寮に入ることになっており、自宅が近い生徒は自宅通勤を、
中には自宅が近郊にあっても寮に入る生徒もいる。

二人一部屋で相部屋、だれと相部屋になるか判らない。
時には上級生だったり、猛煙家だったりしたら、苦労が絶えない。
しかも同じ組子同士であれば、年がら年中、部屋は一人になれない。

組が違うと相手が東京公演だったり、地方公演だと一人で過ごせるので、かなり快適のはずだ。
寮費も安いから結構居心地がよくなってしまう。

この寮にもお化けが出る部屋があり、いつの時代になってもこのことに関しては話題が絶えない。
理由も不明である。部屋の壁にポスターが張ってあり、知らない生徒がそれを剥がしたら
毎晩幽霊が出て大変だったという話は毎度のことだ。

稽古から帰ってきたら食べようとバナナを机の上に置いて出かけ、帰ってきて、
いざ食べようとみたらバナナの皮だけ残っていたとか、
廊下のドアの前にスリッパが揃えておいてあったとか、
電気のコードがグシャグシャになっていたとか、この手の話は常に継続している。

不便は電話が一つしかなく、外部の人から電話がかかると寮長が取り、マイクで生徒を呼び出すので、
だれに電話がかかってきたか判ってしまうのだ。
男性からの電話は悲惨で寮長にばれないよう父親とか、従兄弟とか、嘘も方便かもしれない。


すみれ寮の規則に寮生は次の各号の事項を守らなければならない、という決まりがある。
1、     人に迷惑をかけない。
2、     他の寮生の睡眠を妨げない事。

この頃爆弾と呼ばれる出来事が寮の予科生にあった。突然深夜に予科生がたたき起されることである。
ある生徒がこの事を北野の白い本に当時こう書き綴った。
「私は15歳の時に<一回目>一次にもひっかからず落ちました。
その時私は17歳の時に叉受ける事を決めて普通の人だったらすぐ頑張るでしょうが
私はそれから2年間学校のクラブに燃えて高二の時、年が明けてから三ヶ月間はその時だけは命がけ。
それから神だのみetcとにかくその三ヶ月頑張ったのです。
そして今考えると本当にずうずうしいというか、
思い込みが人よりとても深くて絶対に入れると思い込んでいました。

もっとすごいことを言うと、私を落とす先生は宝塚の先生をしているはずがないと、
ずいぶん凄い事を思ってました。

入る前から、学校の夢は毎日のように夜ふとんの中で例の思い込みをするわけ、
やっと17歳の春めでたく宝塚の生徒になったのです。

私の予科時代はまず初日、あの寮でのバクダンノック。何時ごろだったんでしょか?
何も知らずにすやすや、そんなとき、あのけたたましい数のノック、
外に出ると鬼のような顔をした本科生が全員ずらっといらして、何やらおしかりばかりで、
そんなパニックの最中、今思うとやはり変な子だったんですね。

私は窓の外を見つめて心の中で山の点々とした光を見つめて小さな湯の町宝塚に生まれた
その昔は知る人もなき少女歌劇とまあ口ずさんでいました

私は四番教室の責任者、分担は新藤万智子さんこの方はとの出会いは受験の時に、
見た目は一番こわい感じがしたけれど私のインスピレーションはピピと来たのです。

いざ学校に入るとやはりこの方が私の分担になったのです。
初めてこの方が言った事は「私は怒ったりするのが好きでないし、
あまりしたくないので、そうならないよう頑張ってネ」

ひどく感動したんですネ.私はこの言葉に、それから一年はだだひたすら進藤さんを悲しませないよう、
言葉で言わなくても一生懸命にお掃除とか<いろいろ>してれば、いつかは判ってくれる、
誰かが見ているだろう、そう心に思って頑張った結果、本科生には本当に可愛がってもらいました。

同期とか見ていて、つく上級生によっては天国と地獄の差だナアなんて思ったりしました。
顔の数だけ色々の人格の人がいるんですから。
あっそうそう、掃除が大好きで床を磨きすぎて、
滑って困るから当分磨かなくていいわ、なんて言われた事もありました。

本科になってからは、とにかくよく予科時代に言われた「本科になれば本科の気持ちがわかる」
それが身にしみました。
一人の何も知らない予科生を私が責任を持って指導しなければいけあいのですから。
私はとにかく、うそのない心、一生懸命やる心を大切にしたいと思いました。とても難しいことでした。
自分がちゃんとしてなければ言えない事ばかりですから、
怒るばかりでなく誉める事もそれ以上に大切だと思っていました。

怒られて一になつた予科生は何らかの形で十になる様誉めたり励ましたり、
でもやはり
下級生はどんな子でも可愛いです。

私はとにかく本科の時、嫌な思いをしましたから、その時の予科生全員が
「あけみさん頑張って下さい。私達みんな味方です」という手紙をもらって本当に心強かったし、
そんな予科生の前では悲しいつらい気持ちも自然になんとか頑張らなければという心の支えでした。

今でも感謝しています。だからそうした心の支えになってくれた下級生は余計に可愛いのです。
それから一つ予科のとき一番気をつけていたのは、夏休みが過ぎるとミスが増えるのです。ハイ。
とにかくいろいろな学校時代を過ぎて春初舞台です。
「浪路遥」香川先生が付けてくださいました。
本当は彩乃昭深で「ひかりのてるみ」で出したら駄目だったのです。
<芸名を付けるとき学校に提出して不都合な名前は通らない>
今年研三とにかく私は娘役宝塚に入った以上は人の後ろにうづもれているのは嫌です。
一歩も二歩も前に出て、とにかく私という何かを残したいのです。
それから大きな夢一つ二つ、私は男役では杜けあきさん、麻路さきさんには
前から何か
とてもひきつけられるパワーを感じるのです。
だいそれた事ですが組んでみたい。ハハハハハハ。前進あるのみ。
宝塚が大好きで舞台が大好きで回りに居る人が大好きで頑張って光りかがやきます。
いつか「浪路はるか」ここにありとなる様、初心を忘れずにそれからもっともっと人間的に成長したいです。
ジェンヌだけでは生きて行けませんから、この世の中は。
明日もこれからもずうっと素直な心持ち続けて。
浪路はるかをよろしくお願いします。こころから。4・22」

この生徒は芸名を生徒監の香川につけてもらっている。
香川に切羽つまって芸名をつけてもらった生徒はかなりいた。

このバクダンにそなえて寮に入る時は、必ず底の厚いスリッパと厚地のガウンが必需品と言われた。
すみれ寮の規則の、迷惑をかけない、睡眠を妨げないを冒してまで
このようなことをするのは何の目的があったのか、
バクダンは当時の虐めだったかもしれないが何のために行われたかは不明。


宝塚音楽学校の生徒監・香川とは取材を通じて親しくしていた。
あるとき香川が北野に電話をかけてきた。
「お願いがあるんですが?」
「なんですか」
「実は野坂昭如の娘がテレビに出るらしいんですが、
私の方は何も聞いていなくて出てはいけないというのではなく、
やはり合格した以上は音楽学校の人間なので一言テレビに出ることをこちらに言ってほしいんで、
電話するよう連絡してくれませんか?」

「いいですよ」
簡単に了承したが、そう北野も野坂と親しい間柄でもない。
それでもデスクの電話で野坂の家に電話をかけた。

電話口に出てきたのは野坂本人だ。
北野は事の顛末を細かく説明して生徒監の香川のいる学校の電話番号を教えた。

北野の放送局では、その頃イベントの一つとして「ミスおおさか」を選ぶ行事を大阪観光協会としていた。
書類審査を経て面接で選ばれた普通の女の子は着物を着たり、水着姿で舞台を歩く事は難しい。
北野はその頃、報道と事業の二足のわらじを履いていたので香川の事を思い出した。

宝塚音楽学校で鼓笛担当、整列させ歩かせてという香川の手腕がここで生かせると。
見事にこれは的中、素人の女の子も香川の号令であっという間に舞台をきれいに歩けるようになった。
それはそのはずだ。何も判らない女の子が宝塚音楽学校に合格、
一夜にしてあの入学式で香川の号令で一糸乱れぬ動作ができるようになるのだから。
その香川の指導だから間違いない。

北野は香川の女の子の指導の仕方を見ていてさすが見事と唸った。
ミスおおさかの何回目かで審査員に星組の日向薫と麻路さきを招いた。
当時、審査員にタカラジェンヌが来ることなんかない時代だ。

「ミスおおさか」に関しては、北野は御堂筋パレードのフロートの上で、
OSKの生徒に出演してもらったときは、振付の尚すみれに振付を依頼した。

尚すみれが現役時代には北野が取材して、香川の音楽学校も北野が取材して
そんな関係が互いに助け合っていたのだ。


         旧一番教室

宝塚の男役について北野は上方芸能の1981年4月号にこう書いている。
「タカラヅカ」の魅力は、なんといっても宝塚大劇場のあの大階段が前方にせり出し、
やがて階段にライトがつき、美しい衣装で着飾ったタカラジェンヌが大階段を
宝塚メロディに乗って降りてきて、銀橋に並ぶフィナーレの瞬間であろう。

その美しさは美のこんだデコレーションケーキを感じさせ、豪華絢爛の一言につきる。
そこからは「歌舞伎」にも「新派」にも「新劇」にも見られない不思議な魅力が
エキサイティングに伝わってくるのである。

昭和五十一年三月「ベルサイユのばらV」をテレビの「ワイドニュース」でとりあげ、
インタビュー取材のため初めて素顔の鳳蘭、榛名由梨、初風諄の男役娘役トップスターに稽古場で会った。

稽古場での彼女たちはごく当たり前の女性であった。
そして公演が始まり舞台で見る彼女たちの立ち姿の美しさにあらためて驚かされた。

立ち姿の美しいことは、歌舞伎の世界では当然のことで、最近においては
片岡孝夫の計算されつくした演技の中から生まれる美しい舞台の立ち姿にほれぼれさせられる。
タカラヅカの世界でも、男役それぞれが個性的な立ち姿の美しい形というものを持っているのである。

ご存じのように、タカラヅカでは男役が本命とされているが、
この男役の魅力がタカラヅカのすべてを決めるといっても過言ではないだろう。

ではこの男役の魅力とは一体何だろう。
かつて「バレンシアの熱い花」の月組公演の際、このテーマで榛名由梨をとりあげた。
その時テレビカメラでは、舞台の上でギターを抱える榛名由梨の足から
パンアップして顔のアップへというカットを撮影した。

つまり男役はかっこ良くて足が長く、街を歩いている本当の男性には見られない中性的男性でなくてはならない。
しかもそこには生活の疲れを感じさせないまた見せない、夢の世界の男性でなくてはいけないのである。
この時、榛名由梨に男役の演技とはどういうものか質問した所、
「舞台で一から十まで男役ばかりというか男を演じていればいいというものではなく、
適当に女を観客に感じさせないといけないんです。
ですから踊りの振りにしても必ず男役の振りからバリエーションがついて女に変わることもあります。
今は男役で男を演じていても次の瞬間には女のムードをただよわせていなくてはいけない。
それが男役の魅力を作り出すとともに男役の演技でもあると思います」と答えた。

〈私の青春 私の生きがい これぞ宝塚 榛名由梨〉白い本より

春日野八千代と言えばタカラヅカの男役の代表的スターである。
彼女の男役演技は必ず舞台の上で立ち止まってからセリフを言う所にある。
これがかつての正統派男役演技であると言われている。
そこにはいかに立ち姿というものを大切にしているかという心の内が理解できる。

〈私の半生以上過ごした宝塚 メルヘンなタカラヅカ本当に好きです。春日野八千代〉白い本より

今の男役スターは舞台の上で立ち止まってセリフを言うという春日野スタイルとは正反対であるが、
所謂男役ポーズ、形というものは、それぞれに持っている。
いわば歌舞伎では言えば、松嶋屋の型であり成駒屋の型である。
そして面白いことには自然に男役ポーズは誰かが継いでいる。

汀夏子は右手を顔の前でポーズする独特のキザリ型であり、安奈淳はフェアリーを感じさせるポーズ、
鳳蘭は舞台に立つだけでサマになり、榛名由梨は端正な演技で男役イメージをファンに与えていた。
寿ひずるは最も鳳蘭的舞台ムードを持ち、舞台に立てば観客を自分にひきつける術を心得て、
その立ち姿、目線の流し方は歌舞伎でいえば、見得をきるがごとくに演じ、
手先のかたちにも気を配る男役ポーズをつくりあげている。
大地真央は青い果実的少年っぽさを自然に身から感じさせ、
峰さを理は甘いフェイスの中にイキな男役ポーズを出す所に魅力を感じさせるというキャラクターで
魅力を見せきる演技、形を持っている。

「ワイドニュース」で宝塚歌劇を社会部的ニュースの話題としてとりあげて5年になるが、
テレビの面から見ても宝塚のイメージを大きく前進させたのは鳳蘭であった。

鳳蘭の出る舞台は話題になり、話題になることはニュースになりそれが宝塚の魅力ともなった。
時には舞台を撮影中のカメラに向かって、あの大きな目でウインクをし、
舞台では見られない魅力、舞台の魅力がテレビで放映された。

テレビで5分位の時間の中で宝塚の舞台を見せるには、やはりロングショットのカットより、
画面でよりスターの顔が近くに見えるアップがいいのは当たり前である。

したがって北野は、いつの舞台もテレビカメラを通した比較的アップの画面と
肉眼で見る舞台のロングショットの二通りでタカラヅカの舞台を見ている。


タカラヅカの魅力は舞台だけにしかないと言うものではない。稽古場も魅力ある場所だ。
かつて写真家の竹内広光さんと組んで『宝塚・女の園の中で』というタイトルで
宝塚歌劇の演出家を中心にした写真展を開いたが、このときファンが涙を流して喜んだのは、
演出家の席、上級生の席、下級生の席と厳しく決まっている稽古場で
汗を流して稽古する素顔のタカラジェンヌを撮った写真だった。

そこから感じるタカラジェンヌは、ファンが楽屋口で見る素顔がそこにあったからだった。


 さよなら風景/稽古場

退団者を送る千秋楽のサヨナラ公演も宝塚ならではの魅力ある一回限りの熱気あふれる涙の舞台だ。
クールにいこうとして涙にくれた安奈淳、
決して泣くまいと心に決めて緑の袴をはかずに舞台を去った汀夏子、涙に暮れた鳳蘭、
いずれも20分足らずのサヨナラ公演ではあるが宝塚ならではのエキサイテイング・ショウと言える。

退団するスターにインタビューすると必ず『夢をファンに与える事が出来た』という答えが返ってくる。
夢を観客に与えるタカラジェンヌ。その夢とはなんだろう、それはフェアリー的なものかもしれない。

汀夏子が「こんなキンキラした衣装が着れる所はここしかない」と話していたが、
あのキンキラ衣装に羽をふんだんに使った宝塚歌劇独特のコスチュームに身を包まれたタカラジェンヌは、
その瞬間にフェアリーになってしまい、その一人一人の体から夢が立ちのぼるのかもしれない。

タカラヅカの一つの魅力はマスにあるといえる。
毎年4月に初舞台生の舞台を見るたびにそれを強く感じさせられる。
舞台の最後のフィナーレを見るたびに、宝塚は全員が揃って初めて宝塚と言う舞台が
出来上がる所だということが判る気がする。
それと共に大階段のないフィナーレなんてタカラヅカの舞台でないとも言いたくなるほど、
あの大階段は大スターなのである。

男役を支える娘役の存在も忘れられない。
鳳蘭は「私が遥くららを育てたというけど考えると、くららに私が引っ張られてきたんじゃないかと思う」と言うように、
大型娘役に成長した遥くららは男役トップスターをしのぐタカラヅカの魅力の一つでもある。

そして素晴らしい娘役がいてこそ初めて男役がひきたつのである。

沢山の芝居を稽古場で見たがどれも忘れられないものばかりである。
その中でも忘れられない一つが、
柴田侑宏脚本演出の原作アーネスト・ヘミングウエイの「誰がために鐘は鳴る」だ。

遥くららが両親を殺された上辱めをうけ髪を切られたという話で公演が始まる前に
長髪を坊主頭にすると言うのでヘヤーをカットする所をテレビで取材した。

形は断髪というところだろう。
さて鳳蘭扮するロバート・ジョーダンと遥くらら扮するマリアのラブシーンがかなりあり、
ラブシーンだけを特集しようと撮影を始めた。

この頃テレビの世界もフイルムからビデイオになったばかりの時代である。
そのビデオを撮影中モニターで見ていると鳳蘭と演技している遥くららの頬が紅潮していくのが判った。

そのラブシーンのある、第十一場の「かわいい兎」、第十四場「ヒースの高原」、
第十六場「七十時間が七十年」第二部の二十場「この愛だけは」
第二十六場「今今今」のシーンはラブシーンとともに忘れられない。

しかし、いささか宝塚コードに触れたか本番になったらラブシーンは半分になっていた。

「誰がために鐘はなる」の劇化に当たり柴田はプログラムにこう書いている。
「今の鳳蘭と遥くららにはこの主役像がぴったりだと思うし、芸達者な専科陣が脇を固め星組の中堅が、
あるいは精悍に或いは哀しくゲリラの男女を演じるのを楽しんでいただきたい」

正にその通りで出演者は高宮沙千,但馬久美、天城月江、沖ゆき子、美吉左久子、大路三千緒、
淡路通子、美吉野一也、上条あきら、峰さを理、千雅てる子、夢まどか、他というそうそうたる顔ぶれである。

重厚であり、華が有り、これぞ男役がおり、これが宝塚であるぞというものを、見せ付けていた。

初風淳にベルサイユのばらの人気の理由を聞いた時こんな答えが返って来た。
「全女性の憧れというか綺麗な衣装を一度は着たいというのを着て優雅な気持ちになり
ステージに立っていても気持ちが良い。皆自分もああいう扮装をしたいという夢もあるし
オスカルという男装の麗人もカッコいいし、しかも男装したいという心理を上手くつかみ
そういうものがでてくる所が人気の的ではないかしら…」
ああいう姿になりたい、そんな人物に成りたい夢、望みを心に抱いている女性の心を
ずばり見通して満足せる、それが宝塚の舞台なのだ。

演出家の植田紳爾はタカラジェンヌの魅力を生かしながらその中に自分のドラマを作りあげていく。
一方、柴田侑宏はきっちりと作りあげたドラマの中にタカラジェンヌをはめ込み
華麗な舞台を仕立てあげていく。しかし宝塚には新劇のようなリアリズムの演技は必要ないのだ。

それよりもそれなりの芝居とフィーリングを持ったタカラジェンヌがいて
宝塚歌劇という独特の舞台装置と衣装、照明、音楽の中で、
遠い海の向こうから外国の王子さまがガラスの馬に乗ってやってくるという夢と幻想がミックスした物語が、
舞台で展開されれば充分であると考えているし、又宝塚でしか出来ないものであるといえる。

つまりこんな芝居は宝塚以外では演じたくても出来ないものであり、
それがタカラヅカでありタカラヅカの魅力とも言える。

タカラジェンヌが夢を作り出し夢を売っている。
その夢は淡く空中に消えていくかも知れないが、
その反面タカラヅカを見た人たちの心の中に何故か永遠の残像として残り続くのである。
まさに宝塚の舞台はファンへの夢の掛け橋となる虹を作り出していると言えよう。

そして虹のかけ橋の向こう側には、夢のアイランドがあった。

北野が宝塚歌劇を取材し始めた頃の宝塚歌劇団理事長は
小林公平、市川安男、坂 治彦、荒木義男、植田紳爾、で
この中で理事長の市川は最後の陸士出身で気骨のある人であった。
阪急電鉄の経営企画室長から宝塚の理事長になった。

北野は市川理事長と親しく話をする間柄になっていた。
市川も何かあると北野に相談してきた。
つまりどんな事でも自分ひとりの考えでものを決めるという事はしなかった。

することはかなり大胆であったが、後で考えると正当であったかもしれない。
花組に松あきら、順みつきという二人同時トップスターを作ったのも、
月組トップの榛名由梨に「あなたが辞めないと次のトップになる予定の大地真央が年をとります」
といって代えたり、ある宗教が劇団内で目立ってきた時も関係者にストレートに話したり、
余りに生徒の中で髪の毛を染める人が多くなった時は、髪を染めてはいけませんという通達を出したりした。

中には問題のある生徒を理事長室に呼び、辞めてくださいと短刀直入に言い渡したり、
芝居で忍者になる生徒が覆面で顔が見えないとなると、
歌劇は生徒の顔を見に来るところですと言って東京公演を作り変え、
数億円の経費が掛かり関係者から文句が出たりした。

この頃、赤字続きの歌劇団理事長としては株主総会が頭痛の種、で
北野に株主になんと言ったらいいかと聞いてきた。
北野がそれは勿論関西の宝である芸能を育てている、
そのために経費が掛かるのは致し方ないと言ったらどうですかというと、
正直にそのとおりに言いましたという、答えが返ってきた。

人の意見を大切にするとこがこの人の偉いとこであった。
あるとき生徒が水曜日の休みの日に東京にいったが台風が来そうなので
何人かはその日のうちに帰阪したが、一人朝帰ればいいと考えていた。
しかし運悪く台風で飛行機が飛ばず帰れないまま舞台に穴をあけてしまった。
市川は北野にこのような時はそうすべきか相談してきた。
北野は普通の劇団ならクビですよ。そうでなくても今後の為に減給しないと
信賞必罰がなくなり繰り返しになりますよと言うと、市川はこの生徒をすぐに減給処分にした。

二人トップ制度を作ったりして非難を浴びたりした。
それでも生徒に対しては気を使い、平等を求めていたし公私の混同は嫌いだった。

          安奈淳

宝塚の四本柱の時代つまり汀、榛名、鳳、安奈の四人が揃っての時代はそう長くはなかった。
安奈淳が昭和五十三年年に、鳳蘭が昭和五十四年、汀夏子が昭和五十五年に卒業した。

宝塚では退団を卒業と言う所が面白い。生徒だからだ
安奈淳の退団の時はこんな内容が宝塚歌劇団から、メディアに配られた。

各位          宝塚歌劇団

安奈淳の退団について

宝塚歌劇団花組のトップスター安奈淳{本名富岡美樹 昭和二十二年七月二十九日生まれ}は
本年七月東京宝塚花組公演「風と共に去りぬ」を最後に退団する。
現在稽古中の二、三月宝塚大劇場花組公演「風と共に去りぬ」に出演するほか、
待望の新劇場バウホールのこけら落とし公演「ホフマン物語」の主役をつとめ、
さらに北九州方面の地方公演にも参加するなど本年七月まで予定されていた公演すべて出演する。

非常に突然の申し出であったが、将来も舞台人として活躍したいという本人の意向を尊重、
急遽東宝演劇部にその旨申し入れたところ東宝側の内諾を得た。
在東宝側は出演作品を検討中である


このような内容文での退団者の発表はこれが最後であった。
この頃までは菊田一夫が宝塚の生徒を東宝に引き取っていたという話であった。
それを裏付けるかのように東宝演劇担当の横山清二常務取締役より次のようなコメントが寄せられた。
「安奈淳さん及び宝塚歌劇団の小林理事長より退団の事伺い、
宝塚歌劇の大きな星を失う事は真に残念です。同時に東宝演劇部所属のご依頼を受けました。

東宝にお迎えすることは歓迎いたしますが、何しろ急なお話で在りますので、
契約の期日および東宝第一回主演の舞台は今から案をねります。

ただ今の所具体的に何もかたまっておりません。」
現在の宝塚歌劇全盛に一翼をになっているスターであり
男役ながら近代的なセンスに溢れた魅力的な女性だと思います。今後多様な舞台での活躍を期待します」


安奈淳、鳳蘭、汀夏子の三人のサヨナラ公演、そしてそれを囲むファンの数と
熱気の多い事は後にも先にもこれっきりだった。
それほどファンもメディアも熱中させるタカラジェンヌだったのだ。

北野はそれぞれの人のサヨナラ公演を取材したが、鳳蘭の時は早朝から密着取材した
鳳蘭の退団公演はサヨナラ作家と言われた植田紳爾脚本演出の
原作・五木寛之の朱鷺の墓よりの「白夜わが愛」植田は鳳蘭の事をプログラムにこう書いている。

「ツレチャンがこの舞台で宝塚を辞めていきます。淋しさや悲しさ以上に僕には、
ベルサイユのばらや、風と共に去りぬ一緒に作り上げたよき仲間がいなくなるという
なにか片腕をもぎとられたような心境です。以下略」

退団公演を担当した時植田は未来がある人は旅たち、無い人は殺してしまっていた。
鳳蘭は旅だちであった。
退団公演の「白夜わが愛」のその科白は
『僕たちは過ぎ去った過去を忘れるんだ。
昔の事は今日限り・・・そして新しい世界に旅立つのだ以下略』
そして最後の科白は
『さようなら、過ぎ去りしもろもろの思い出よ、
私たちは今新しい人生に旅たって行きます。あの白夜の彼方に、
二人の愛を確かめ合って・・・さようなら・・・お別れです・・さようなら・・・』

そして主題歌の白夜わが愛の作曲は寺田滝雄、宝塚トーンのメロデイーが舞台から客席を覆い包んだ。
サヨナラステージの最後の舞台での挨拶が終わり、
北野はマイクを持って舞台の緞帳が下りたばかりの鳳蘭の所に行きマイクをさし出した。

「鳳さん今の気持ちは?」
突然鳳蘭が叫んだ。
「緞帳が、緞帳が」
北野はそれでも「鳳さん今の気持ちは?」
緞帳はお構いなしに上っていく、北野もそれで鳳の言葉の意味が判った。
お陰でその後、鳳に今の気持ちはと聞いても感激は、緞帳と共に去っていた。
この頃の宝塚歌劇団の事務所も生徒もスタッフも和気あいあいだった。
メディアも宝塚を良くしていこうというものばかり、互いにいい物ができる事を願っている、
その心が自然に結び合っていたのだろう。作品にも反映した。

稽古場でよくこんな会話を耳にした。
「今日お鍋しようか?」
「しよう、しよう」
「じゃ稽古終わったら、かつきでやろう」
稽古場に取材に来ていた北野にも声が掛かった。この頃はそんな雰囲気だった。
かつきは小料理屋で生徒がよく利用する店で、
店の女主人をおかあちゃんと呼んでいた、気さくな店である。

何事も上級生順、成績順という仕来りが守られている宝塚は、
こうした和気あいあいの中で生徒同士で宝塚本来の精神が継承されていたのだ。

稽古場から生徒が帰る時は必ず事務所をのぞいて、お疲れ様と声をかけたり、
おとうちゃん(生徒監)にお疲れと声をかけていく姿が何時も見受けられた。

互いに気遣いするし、親近間があり、それだけ互いに気持ちの距離も近くだったのだ。
それに生徒を含め皆が大人だった。
鳳蘭を稽古場で取材をしていた時、稽古場の片隅が上級生の控え室になっていた。
その中で大声で喋り高笑いする声が聞こえてきた。立会いのプロデユーサーもいない。
突然、鳳蘭が「一寸静かにしてくれない、取材してるんだから」と
大声で控え室の中に居る生徒に注意を促した。

雑音は一瞬に静かになった。
〈宝塚 夢 レモン ミルク 白 花 姫 空 海 青空 
総ての夢は宝塚の中にあり。鳳蘭〉白い本より


これと似た話は但馬久美にもある。歌劇団で一時ある宗教が流行ったことがある。
その頃丁度但馬は組の組長になっていた。
彼女は組長と呼ばれるのが暴力団の組長みたいでいやだといい、
組子にキャプテンと呼ばせていた。彼女が或る日組子を集めてこう言った。
「宗教は自由だけど宗教で人を苦しめたり苛めてはいけない」。
これでかなり気分が助かった組子がいた。
自分の意見が言えるそれなりの生徒がいたのだ。

〈宝塚 時を感じなくて時を感じさせる園、私にとって情熱の一こまです。
今ここに悔いのないよう大いに羽ばたきます。但馬久美〉白い本より


後の話だが上級生が下級生を食事に誘っても、約束があるからと言って簡単に断られてしまうので、
下級生を誘うのが怖いという話を聞いた。昔は上級生の誘いは絶対だったのにと北野は思った。
時代が知らない間に宝塚を変えている。



 第5回へ続く


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第5回

大地真央がトップになった時、北野の取材にこう答えた。
「組全体のおちこぼれのないようしていくのがトップの責任だと思います。
一番最後に大階段を降りてくるので、ああ月組の看板になったのだから
大変な事だなあと感じている。
看板になった事に対しては各組いろいろなカラーがあるわけで、
それを代表する私が月のカラーを作っていくわけで、
今までしてきた事をこれからも自分らしくしていきます」

この新しいトップスターをどう作り上げていくかという事に対して
作者で演出の柴田侑宏はこう語った。

「作者としてはやはり男役のトップスターを美しく、いかに魅力的な主役像を作るか、
見た目にも役の上でも喋るセリフ、歌がいかに客にアピールさせるものにするかに
一番にポイントをおいている」

又、大地はさらに
「幼い組と言われるのは嫌ですね。若さとフレッシュの組とアピールしたいです」
この大地は北野の白い本にこう書き綴っている。

〈宝塚は最高の夢の職場です〉

大地の相手役をしていた黒木瞳も
〈心ときめき 胸ふるわせ 素敵な綺麗なところ 私の宝塚〉と書いている。

正に夢のアイランドを彼女たちが作っていた。
ご存じのように宝塚歌劇団は総て座付き作者、つまり生徒に合うように作品を書き作る
というわけで常に演出家は作・演出なのである。


植田紳爾もこう話している。
「良い生徒がいて一寸役をつける。
ところが次の公演で違う演出家がこの上げた生徒に役をつけない場合がある。
こんな時は次にする時せっかく上げたのが下がっているわけで、
これを又上げる事は大変なエネルギーがいるんです」

この話の裏にはかつてはそういう場合、
次の演出家がその生徒を使い自然に育てていった事をうかがわせた。


〈宝塚は夢を生む所です。愛を生む所です。
そんな所で仕事をするぼくは今迄に色んな夢を、愛を苦しみながら生み出して来ました。
そしてまたこれからもこの幸せな仕事を続けてゆきます。
いつまで続けて行けるのかわかりませんが、夢と愛この二つの大切なものを決して忘れないで、
苦しみながら仕事を続けてゆくでしょう。

夢と愛 愛と夢 宝塚は永遠に素晴らしい所です。植田紳爾〉白い本より

柴田にしても植田にしても、この頃の演出家は座付き作者として、いかに宝塚調を作る為に
永遠のテーマである愛と夢を大切にしながら作品を作る努力を続けてきたのだ。

それがあるから宝塚にはスターが去っても又次のスターが生まれてきたのだろう。
実はそれは小林一三の精神がそこにあったからだろう。


宝塚に育ち
   宝塚に老ける
宝塚こそ吾が人生
小林一三先生の
偉大な存在に
我が目的正しかりし
        内海重典 白い本より

日本のミュージカルを勉強する為に宝塚に入団して
もう三十数年がたちました。
まだまだ思うような作品が出来ませんがこれからも
宝塚にいつづけそうです。
タカラヅカ フォーエヴァー

        岡田敬治二 白い本より

宝塚歌劇のプログラムは昭和51年頃は150円で
表紙はその組のトップスターと決まっていた。
勿論公演の台本も掲載されている。55年に200円に57年には250円に
昭和61年には280円に、平成元年には340円に、平成4年には400円に
平成5年には500円に、平成9年には571円プラス税金、平成9年には600円に
そして一気に1000円になり台本の掲載を止めた。
勿論表紙のトップスターの写真も無くなった。

宝塚歌劇のプログラムの良さは安く生徒の写真が明確に載り
台本が物語を難解にさせたときはファンが台本で勝手に理解してくれるそこがいい所であった。


さきざき会 麻路さき/新人公演

阪急宝塚南口から宝塚歌劇団の事務所のある建物に来るには宝塚大橋を渡らなくてはいけない。
ここは地獄の大橋と言われるくらい北陸からの冷たい風が吹き抜けていくからだ。
一時生徒の間で毛皮のコートが流行った

理由はこの地獄の大橋を渡るのに必要だと言われる程北風が本当に寒かった。
北野にこの大橋で出会うと必ず挨拶をする生徒がいた。
北野は歌劇団の総務部長の松原徳一に
「挨拶は只、見返りは大きい。つまり誰にでも挨拶できる人は心のある人であり、
挨拶されればされたほうも悪い気持ちはしない、そして何かの時に助けてくれる。
つまり挨拶は只、見返りは大きいと言うわけ。でいつも大橋で出会うと挨拶する生徒がいる」
と話した。
その後、北野は月組のバウホールの公演で愛・・・ただ愛 エデイットピアフの物語で
新聞記者の役をしている肩幅の大きい生徒の演技が目に付いた

別に役と言っても何も無い、ただやたらと、うしろ姿が印象的だった。
早速松原に聞くと「いつもあんたに宝塚大橋で挨拶する生徒だよ、麻路さきだよ」
と教えてくれた。
その頃、新聞記者の間でも何となく彼女は目につき始めていた。
スポーツニッポン新聞社の藪下がある日北野に麻路とご飯食べる機会をつくって欲しいと言って来た。

顔ぶれはサンケイ新聞社の山田麗子、後に山田は亡くなり平松澄子が加わる。
日刊スポーツ新聞社の辻則彦、報知新聞社それに藪下哲司と北野だ。

北野はあらかじめ松原にこの話をした。松原もうなずいた。
会場は旅館若水にした。
いざ前日になるとなんと新人公演の稽古が当日ある。
北野は松原に新聞記者がこんなに集まるのに来れるのかと聞くと、
松原はさりげなく大丈夫と、いつものひとなっこい顔で答えた。

予定の時間になると麻路さきは鳩が豆鉄砲をくったような顔で現れた。
誰かが今日は稽古でなかったのと聞くと

「そうなんですけど、石田先生が『おい麻路、今日は仕事があるんだろう、
稽古は抜けていいから行け』と言われ、えっと思ったんです。
仕事ってなんだろうなあと思って来たんです」

月組の二都物語の新人公演の稽古は、この日も麻路無しで本公演終了後行われていた。
北野は松原が大丈夫と言った意味が判った。
松原は阪急電鉄から早い時期に宝塚歌劇団にきていたこともあり、
また彼の人望から
生徒には理解もあり人気もあった。
その証拠には松原のデスクの引き出しの中には生徒が
彼と撮った写真が沢山入っていた。
生徒行政がうまかったのだ。

研3の生徒でしかもこれからスターになるかどうかも判らない生徒を
口うるさいメディアの記者が集まりご飯をご馳走するなんて、
過去の宝塚にはそんな生徒は一人もいなかった。

どちらかと言うと、メディアの人間はご馳走される側だ。
この集まりで会の名前は誰が言うともなく、「さきざき会」とこの日命名された。
麻路さきの「さき」を取ったのだ。
そしてこれかも頻繁に集まろうということになった。

麻路はまだこのメデイアの会がいずれ自分を星組のトップに押し上げる原動力になるんだと
いう事には全く、気がついていなかった。


〈私の人生の最高の時期に自分で選んで入った最も厳しい世界、
嬉しい事、他の死事、辛い事、悲しいこと、沢山ありすぎてとても不思議な所ですが、
私にとってここに入れた事は一生の幸せです。
昭和60年7月24日 月組 麻路さき〉白い本より


宝塚では時々組替えをする。
組替えになる生徒はいいから替えるんですと劇団関係者は北野に言った。
この組替えは会社で言えば人事異動だが、
宝塚の場合は組が替わることは全く知らない場所に行くのと同じだ。
そのくらい疎遠のところに24時間過ごすのだから大変な事なのだ。

しかしこの世界では運がいる。
初舞台の時、麻路は北野のインタビューにこう答えている。

「同期とは親よりも一番大切なもので、宝塚に入り、
死ぬまでたぶん友達いや姉妹だと思います」

研3で麻路は星組に組替えになるが、これと同時にプロデューサーも代わった。

後任は日頃から北野に麻路はいいと誉めていた橋本雅夫が編集部から来た。
橋本は宝塚の辞典と言われるほどの物知り男だ。
宝塚70周年、80周年の本は全て橋本の手を煩わした。

宝塚には本公演を一日だけ研7以下でする新人公演というのがある。
新人公演の主役をやる生徒はいずれスターになるという候補生である。
星組公演の「華麗なるファンタジア」で麻路は新人公演の主役を演じることになった

初めての新人公演の日、日頃から麻路・愛称まりこのヘヤーの面倒をみている
美容院のマヤの山中勝子が楽屋でかつらの具合を見ていたとき、
まりこが舞台に出るのが怖いといって奈落に逃げてしまう出来事があった。

同期が探し出して無事舞台は幕があがった。
麻路さきが星組に変わった時北野に
「何でよりによってこの組に来たのかしら」
北野が何故と聞くと「皆音楽学校時代高卒組でしかられていたひとたちばかりなの」

確かに同期は皆高卒であった。
顔ぶれは出雲綾、千秋慎、海峡ひろき、天地ひかり、麻丘奈里、英りお、卯月桂、
瑞木淳、
滝はるか、そして麻路さき。
麻路の嘆きはやがて同期にとっては励みになった。
というのも今まで香板でも後にいた同期の人達が、
麻路が来たお陰か前に出てくるようになったからだ。

麻路が来た事で組の中の同期にパワーが生まれたのであろう。
同期の団結心かもしれない。


「宝塚」・・・人によって
それぞれのイメージがあると思う。
実際 ステージに立つている者でも
「宝塚」というものに対する気持ちはちがうでしょう。
私にとって観る人に夢をふりまく華やかな所でもあり、また
きびしく、つらい仕事でもある。
 ・・とは言っても、苦しさ、つらさは、それほど大きくはない。
 何故ってライトの中で拍手を聞いていると
 とても実感があるからだ。
 これから宝塚は、宝塚なりの作品「勿論玄人にも通用する」を
 作っていくべきだと思う。
 夢もあり内容も深い芸術性のある作品・・・
 ダッテ、そのために生徒はレッスンをしているのだから。
       海峡ひろき
「宝塚」が世の中で、どのようにうけとめられているのか凄く知りたい。
       みゆ

北野はテレビの取材で新人公演の「華麗なるファンタジー」で
初めて主役をやる麻路さきに主役の気持ちを聞いた。
聞かれた麻路は「やれば何とかなるという気持ちがありましたが、
演ってみると主役はすごい責任感があることを痛感しました。
でも自分の目標にしていたことだし、一度はしてみたかった事なので嬉しいです」と答えた。

本公演で主役を演じている峰さをりは「
新人公演は一回しかないのだけに溌剌として明るく元気で楽しいという事がいります」
と話していた。その峰も北野の白い本にこう書いている。


〈今の私から切れないもの、いつも頭の中にある切り離しては考えられないとても大切な所、
とても暖かい所、とても辛い所、そしてとても大好き〉峰さをり


宝塚歌劇の舞台には銀橋(ぎんきょう)という
40センチの客席に張り出しているステージがある。
かつて白井鉄三がパリで観た舞台が銀色に見えたことから、
このような名前で呼ぶようになったという。

振付の朱里みさをが銀橋についてこんな話をした。
「お客のいる一番目の前で芝居をするのだから、
芝居の出来る人でなければここには出られないのです。
誰でも通れるというものではなし、他の人はスターになるという人しか通れないし、
ここを通るということはスターになるということなのです」


〈私と宝塚1、2、3、4、リノリュームの床を風と裸足の足が通り過ぎる。
何人の生徒が私の目の前を通り過ぎる。
長い年月、私は教えてきた道も私には宝塚を離れる事は出来ない。
それは一人一人を好きだから。

これからも命ある限り又、足音を託して去りたい。終わりなき旅だから・・・〉  
              朱里みさを 白い本より


宝塚 ― 夢の星くず
   日は移り時は過ぎても
      胸の底にのこる
         かずかずの舞台
              田辺聖子  93.5.30 白い本より

毎日新聞社社会部で一番の文才があると自称している須佐美誠一は、
いつも大きなアタッシュケースを持ち歩いている。
この大きさだと原稿用紙がそのまま入るので、どこでも原稿が書けると話していた。

その須佐美が夕刊で「ルック」という全国版で一面を飾る囲い記事が今度出来る。
その担当が自分なので北野がいつも話している麻路さきを取り上げたいと言ってきた。
写真はカラーだという。

早速、宝塚歌劇団の宣伝担当の春馬誉貴子に取材を依頼し、
取材に劇団を訪れた須佐美は一対一でじっくり取材がしたいと言い、理事長室で麻路を取材した。

芸能蘭で取材されることがあるが、
こうした新聞の一面に宝塚の生徒が載るというのは珍しいことだった。

1987年8月18日毎日新聞夕刊の一面の「ルック」に
カラー写真と「虚飾に徹し頂点に」という見出しで麻路さきは掲載された。

その日の駅の新聞売りのスタンドには夕刊が細長く筒状にされ、
麻路の写真がこれでもかというぐらいにそこらじゅうに氾濫した。


須佐美誠一の記事は次の通りだ。
「身長170センチは今時の男役ではそう珍しくもない。
容姿、踊り、歌、芝居がずば抜けているだけでは、宝塚の大スターにはならない。
時代が要求するパーソナリティを併せ持たないと頂点には立てませんと、
入団7年目。22歳でこの科白だ。ポスト鳳蘭の片鱗がちらりと見えた。

時代の要求というのは観客ファンのイメージのことだろう。
男役は作られたイメージの世界だが、日常の中でも山本麻里子(本名)は男を演じている。
大股で歩く男ぶり、女の子が好むあんみつ、お好み焼き、ましてや親子丼など食わない。
一人住まいのマンションでネギは刻むが、男の目でテレビのドラマを見ている。
男を愛することなどもってのほかで、虚飾と虚栄に徹しなければ、男役の頂点に立てませんときた。

相模原市立鶴間中学を卒業後、進学が決まっていたのに内緒で宝塚を受験した。
大映女優だった母が芸能界のいやらしさを骨身で知っていて、最後まで反対した。
我を通したのはスポットライト、拍手、宝石のようなスパンコールのついた衣装、
つまり虚栄にあこがれた。が現実の宝塚は先輩をたてる。
掃除に分刻みの練習、容赦のない叱責。軍隊みたいな生活でした。
3年間に3分の1近くが退団した。

8月28日から宝塚バウホールの「グリーンスリーブス」で初の主役。
恋人ができたらすぱっとやめるそうだが、外がほうっておくまい。」


須佐美は俺は芸能記者ではないからと、宝塚のタブーを破った。
それは年齢と本名を書いたことだ。


北野の白い本に二度目の麻路の文がある。
〈大好きなこの世界で自分がどれだけ成長できるか・・・
今日、目標ばかり大きすぎて夢ばかりふくらみすぎて、まだまだおいつかないけど、
この夢の世界で私は自分の夢を現実に
そしていつの日か皆に夢を与えられる様な人間になれたら・・・私の一生の目標です。
            新星組生 麻路さき〉


麻路さきはバウホール公演の「太陽に背を向けて」主役で稽古に入っていた。
演出はこれが4作目の石田昌也だ。男っぽい芝居で麻路も張り切っていた。
北野はこれをテレビで取材することにしている。
宣伝の春馬誉貴子が北野に、
一路ちゃんとかなめと、マリコの三人を揃えて取材したらと言った。
北野はすぐにピンと来た。

一路は大劇場で公演中、かなめ(涼風の愛称)は休み中、で麻路はバウホールだ。
早速、かなめに公演が終わったところの一路の楽屋を訪ねてもらった。
そして、化粧を落とした一路とかなめの二人が稽古中のバウホールの麻路を訪ねた。

一路が麻路の化粧した顔を見て、「マリコ、化粧ちょっと濃いよ」と言うと、
麻路は照れながら、そうかなあと言いつつ二人の突然の出現に満更でもない顔をした。
学年が違う生徒たちが親密というのは滅多にない。
この三人の気持ちが合い通じていたからである。


           一路真輝/誕生日

一路が個人的な問題でごちゃごちゃした時、劇団の総務部長の松原が北野に、
「一路慰めてやってくれない」と言ってきた。
この頃の劇団の人たちは皆親密で宝塚一家みたいな風潮があった。
互いに助け合う精神をみんなが持ち合わせていたのだ。

三羽烏と言われ始めた一路、涼風、麻路の三人が一堂に会するなんて
偶然としか普通は考えられない出来事である。

振付のアキコカンダが北野にこんなことを言った。
「北野さん、マリコの手が長く見えるように振付してきたからね」と。


平成2年のスポーツ新聞にこんな記事が出た。
タカラヅカの若き3人、平成2年の宝塚歌劇を背負って立つスター、
月組涼風真世、雪組一路真輝、星組麻路さき。

入団学年は1年ずつ違う。
共通性は何もないが、強いて言えば3人とも初舞台が4月の「春の踊り」というだけだ。

面白いのは3人とも「ベルサイユのばら」に出ている。
涼風はオスカル、一路はオスカル、麻路はフェルゼンとアンドレ、
しかも麻路はフェルゼンで一路と、アンドレで涼風と芝居をしているのだ。

この時の涼風はスター候補生と言われることに対して
「絶対的な憧れですね。男役でしかもここまで来ましたら、やっぱりトップは夢であり、
憧れであり、なりたいものです。正直な気持ちです。」


〈宝塚 仕事場そして夢・・・私にとっては宝塚は宝物 ここに生きて 
ここで すべてを焼きつくすところ・・・そう、宝塚は私・・・なのです。
              涼風真世〉白い本より


一路はトップになる雰囲気は感じるのかということに対して
「そうですね、まあ、ないと言えば嘘になりますけど、
そういうふうに言われる雰囲気を自分で作っていくほうが先ですね」と言う。


〈私の宝塚・・・まだ新人と思っていたら学校も入れて
9年間も宝塚にいる自分に気が付いたのはほんの数日前なんです。

10年間・・・私にとって宝塚はすべて・・・
なんて書いたらすごくかっこうが良いのですが・・・

でも休演してみて自分がどれだけ宝塚を・・・
そしてお芝居、歌、踊りを必要としているかが・・・分かり・・・
今演劇以外の興味のない自分をよく見つめてみると
やはり宝塚が私の生活の全てだと思うのです。

でもそんな自分を見つめるもう一人の私は宝塚 
それは私の仕事として冷静に見ているのです。
それがうまくバランスがとれた時・・・素敵な舞台が出来るのでは・・・?と
思う今日この頃です。なーんて・・・やっぱり大好き宝塚 私の人生の宝物です。
           ゆきぐみ 一路真輝〉白い本より


麻路は自分がホープと言われることに対して
「私はそういうふうに呼んでもらえるのは、光栄だし、
その中にはこれからという意味が含まれていると思うので
ホープと呼ばれている間に次に向かって走り続けようと思っています。」


〈宝塚はよいところです。よいところで竜宮城です。
でもいつかは下界に帰らなければならないので、そこがつらいところです。
行けない人が多いので、一度は行けた私は上得意です。
一生 みんなに自慢します。まりや ともこ〉白い本より


こんな話を演出家の植田紳爾が、あるパーティー会場で話したことがあった。
「麻路さきについてはいろんな人から耳元であの子はいい、あの子はいいと、
ご飯食べに行っても、呑みに行っても、あの子は良い、良いと言われ、
そんなに良いのなら一度嫌らしい役でもやらせてみようかと思い、
そこで『戦争と平和』のアナトリーの役をつけたんです。」

会場でこの話を聞いた人たちは、植田紳爾の生徒の育て方を知ったのだ。裏話である。

植田が演出した「戦争と平和」は、榛名由梨の退団公演でもあった。
退団するかつてのトップスター榛名と嫌らしい役と植田が後に言ったアナトリーを
これからのホープ麻路がするところが面白い。
しかも榛名が扮するピエールと麻路ふんするアナトリーの二人が絡む場面もある。

麻路はアナトリーを演じるに当たってこう話している。
「『戦争と平和』という大作のアナトリーと思わずに、戦争と平和は嬉しいが、
それより、やりたい役が回ってきたなと思い取り組んでいます。」

アナトリーを演じた麻路はこんな事を言った。
「私がマイマイさん(南風まい)の横に座り手を伸ばしていくと、
客席が一斉に双眼鏡を出して観るんです。恐ろしいですよ。
客席中が双眼鏡になって舞台を観るんですから、レンズが光って。」

植田の嫌らしい役は的中した訳だ。

麻路はいつも夢を見るという。でもその夢は誰にも喋らない。
喋れば夢が実現しなくなると思っているからだ。でもその夢は確実に実現していった。



 第6回へ続く

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第6回

植田紳爾の稽古場は穏やかな中に厳しいものがあった。
出来上がった台本はそう手直しはない代わりに、台本に書かれた役をもたもた演じていると、
突然そこカットされる場合がある。生徒もうかうかしていられない。
台本を読み自分で考えて芝居をして、それでも判らなければ植田に聞く事が大切で、
判ったふりで芝居は出来ない。つまり初めから役に合うように生徒が配置されているのだ。

かつて月組で「ベルサイユのばら」を公演するとき、たまたま月組公演が大劇場であった。
その公演を植田が観ていた。
どうして観に来たのかと聞くと、月組の公演をするので生徒を観に来た。
観ないと誰に何をさせたらよいか判らないからという返事が返ってきた。

植田の場合は稽古場に明るいレオタードを着て来ないといけないと、よく言っていた。
何故なら明るいものを着ていれば、ぱっと目につくじゃないかということだ。

つまり任せた配の人間が予想通りに演じればいいということで、
それが演じられないとカットとなるのだろう。

運もあれば努力もいる世界である。出来のいい生徒もいれば出来の悪い生徒もいる。
しかし稽古場では生徒をそれなりに生かそうとする。
座付き作者のむずかしいところである。
ホープ3人を集めての「ベルサイユのばら」は20世紀最後の配役とも言えた。


         メディアと生徒の懇談

新聞社の記者で宝塚歌劇の取材担当者は芸能記者クラブに加入している。
一方、放送局の放送記者あるいはディレクターはそうした記者クラブはないので、
それぞれが取材に当たる。取材するに当たってはさほど不便はないが、
年1回の芸能記者クラブの総会といって
ホテルで開く宝塚の生徒出席のような会合は放送にはない。

芸能記者の方には劇団幹部はじめ阪急電鉄の幹部も顔を出した。
まあ簡単に言えば、歌劇団との懇親会である。

昔から新聞と放送は何となく対立しており、
新聞は放送に対してあまりいい感情は持ち合わせていなかった。

北野は在阪の放送局にも呼びかけ、放送も歌劇団と懇親会を開こうと呼びかけた。
放送と言っても範囲はかなり広い。
何故かと言うと、テレビやラジオの番組にも歌劇団生徒は出演したりしているから、
そのキャスターもいうことになる。

放送局は朝日放送、毎日放送、関西テレビ放送、読売テレビ、ラジオ関西、
ラジオ大阪、それにNHKということになった。

第一回は宝塚ホテルで開かれ、各社から宝塚を取材したことのある放送記者や
番組のデイレクター、放送タレントの浜村淳、小山乃里子、鈴木美智子、
それに各社の人気アナウンサーも多数出席した。

参加した歌劇団の生徒も、放送タレントやアナウンサーに会えるので逆に人気が高まった。
放送の方はそれなりの芸達者がいるだけに、司会は小山乃里子で、
北野は裏で進行に当たった。浜村淳の話術、アナウンサーの平松邦夫の競馬実況と
各局出席者の紹介、各組ごとに生徒の紹介。
出席の生徒は研8以上で、それに主要生徒であった。
役者には事欠かなかった。それが生徒にも人気を呼んだ。

さらに双方日頃ゆっくり話せない舞台に関することなどが話せて生徒にしても、
いろいろ情報を知るいい機会の場でもあった。

月組トップになる直前に涼風真世が北野に、
「彼女が私のお嫁さんです」と言って麻乃佳世を紹介したのもこの席であった。

どちらもこの会で互いにコミュニケーションが生まれ、意思の疎通が出来た。
顔見知りになればメディアもよし取材しようという気持ちが生まれるものだ。
しかし残念なのは新聞社と違い、どちらかと言うと放送の人間は宝塚が好きで
好意で取材している場合が多い。何年も継続して取材を続けて来ているのは、
北野と関西テレビの通称「巌」くらいであった。

この懇親会も5回くらい開いたところで消滅していった。
宝塚歌劇団も新年会とともに記者発表したりしてきたが、
いつしか宝塚でのメディア向け発表もなくなり総て東京でということになった。


本来、宝塚だから一つの価値が存在していたが、総て東京ということになると、
宝塚という希少価値が遠ざかっていくように感じられる。
夢のアイランドはだんだん遠くになりはじめた。

宝塚歌劇団に取材記者が来ても、
お茶が出ないという話は企業の広報の間で話題となったことがあった。

企業の広報はほっておいても記者が来てくれるなんてと、うらやましがった。
北野の白い本には数十年かかって
沢山のタカラジェンヌが宝塚について自分の気持ちを書き綴った。


杜けあき
「現実と夢のさかい目。
美しいひとがあまりいない。
企業だけじゃない人間のロマンがもっと欲しい。
私は宝塚が大好きです。好きなうちは燃えつづけます。
もっと素晴らしい世界にしたい。これだけ夢を表現する世界は少ないと思います。
それが70年の伝統。だから絶対無くしたくない。
それを守るのは私達 いつも生きてるように、輝く道・・・それは宝塚 
悪女だけどいつも真っ直ぐ前を向いて力を抜いて歩きましょう・・・これは目標。

But 宝塚はいいな・・・やっぱり好きだ。これだけは忘れない。絶対に。
           1984年1222日」


涼風真世
「宝塚
すてきな世界
夢の世界
そしてそこで生きる自分
もう一人の自分が舞台に立ち
夢に酔う
そしてもう一人の自分は
自分をみつめる
宝塚
私にとってそしてみんなにとって
しあわせを与えてくれる所・・・だと思う。涼風真世

黒木瞳
「心ときめき 胸ふるわせ奇麗なところ 私の宝塚。」

若葉ひろみ
「宝塚 私の最も愛する宝塚
私が去っていく宝塚
私のすべて宝塚
これからもっともっとよくなってほしい。
ほんとうになってほしい。
宝塚
私は去っていくけれど
これからも いつまでも
愛させてほしい宝塚。わかばひろみ」

秋篠美帆
「100%の情熱
200%の愛情
でも私の中では80%まででいて欲しい・・・今は60年6月大雨。秋篠美帆」

水原 環
「宝塚とは私の故郷のようなもの。
宝塚歌劇団とは私の両親のようなもの
そして今私の中で
自分に最も合った生き方を捜している・・・昭和60年8月11日 水原 環」

こだま愛
「宝塚は、私にとって自分を写す大きな鏡なのです。
もっともっと美しく華やかな自分を写していきたいなあ・・・
夢の世界でいろんな私と出会いたい。 こだま愛」

剣 幸
「私の宝塚 夢の世界 いろいろな役は総て私の宝物そして・・・宝塚。剣 幸」

梢 真奈美
「宝塚という世界に自分で飛び込んできました。自分で選んで入った道です。
勿論私は未熟者ですからまわりの方の温かいお言葉を頂かなければ
前に進まない事は判っているつもりです。

でも私はやっぱり自分の道は自分で選びたいと思います。
後悔してもつらくても苦しくても自分で選んだ宝塚に入ってから
私はこれを信念にしてきました。宝塚で学ぶ事は本当にいっぱい有ります。
でも一生勉強なのだとも学びました。

宝塚とは問われても余りに今の私にとっては大きすぎて
数ページにはおさまりそうにありません。難しくかっこ良く書くつもりもありません。
だけど私の人生の中で最も大きなものを教えてくれたトコロだと思います。
                 1986・3.15 梢 真奈美」

洲 悠花
「今の私にとって宝塚は夢と現実が交差している所です。
舞台に立ってお客様に心を伝える。
お客様にとっては夢のような世界かも知れないけれど、
私達だって人間だからいろんな事があるし、感じたり、考えたりします。
だからこそそんないろんな思いを込めて舞台を務めたいと思うんです。
私情を出すんじゃなくて・・・とても難しい事だとは思いますが・・・
でも宝塚に入れて舞台に立ててここで関われた全ての人が好きだから、
ここで流した汗や涙はかけがいのないものだと思うから、
大切に宝物みたいに抱きしめていたいと思うから、
舞台から客席に心のメッセージを伝える為の努力なら
どんなことだって頑張ろうって思います。

くじけそうになる時も何度もあるけど中途半端なことはしたくない。
振り返ったりつまずいたりを繰り返しながらでも、
行けるとこまで自分の足で歩いていきたい。
やっぱり宝塚は素晴らしい所だと思うから・・・
いいことばかりじゃなくても、それでも私はここが好きだから・・・
心を・・・夢を伝えたい。ここで・・・洲 悠花」


彩 辰美
「つきないな言葉だけど宝塚我が心のふるさとという実感。
もし結婚する事が決まっていなくて退団しなくてはならなかったら、
私は淋しくて淋しくて退団までの日々を泣いて過ごしたと思います。
もっと皆宝塚を愛してより美しく、より素晴らしい花園になる事を祈っています。

入団できてよかった、とても幸せです。
何事においても心を大切にして、ハートある道を歩きたいです。
いくつになっても、背筋を伸ばして歩いていたいです。

生徒の皆も歌劇団の皆様も宝塚にいる限り宝塚を愛し
胸をはって歩いて頂きたいと思ってます。選んだ道の為に・・・彩 辰美」


あづみれいか「宝塚・・・生活のすべてといっても過言ではないくらい
パーセントを占めている。夢も理想も現実もすべてステージ上では、
あづみれいか として生きている。舞台が好き。男役が好き。
欲望をみたしてくれる、それがステージ。それが宝塚です。」


宝 純子
「宝塚は世界の中で一番素晴らしい町・・・そしてその夢の舞台は私の生きがいです。」

花愛望都
「宝塚。今の私にとっては生活の大部分精神的にも行動するにも何より優先。
歌が好き、踊りが好き、芝居が好き、舞台が好き、
それを仕事に出来ている今は本当に幸せ。
沢山の人に巡り会えていろんな事を感じて
普通ではのぞくことの出来ないような世界も見れたり、とても感謝しています。
一般常識に欠けていたり小さな社会でクヨクヨしたり、つまらない人間だと思いますが、
ここにいる間は今を大切に、そしてもっと大切な時が見つかれば胸をはって卒業していきます。」


紫苑ゆう
「宝塚は私の青春の全てです・・・ときっとみんな言うだろう・・・
そうなんです。その通りです。私は自称、宝塚ファン誰よりも宝塚バカだと思います・・・
だってホントーに好きなんですからね。アホ程・・・。

宝塚は夢、愛、宝塚バンザーイ。アホのシメこと紫苑ゆう」

日向 薫
「宝塚。今生きてる場所です。1989・3・4」

毬藻えり
「宝塚・・・TAKARAZUKA・・・なんて夢のある美しい世界なのでしょう・・・
この夢の舞台の中に生きている・・・華やかな舞台で数々の女性に巡り会うことが出来る・・・
夢が現実となる素晴らしい世界・・・
ここで青春の一ページをつづることの出来る私は最高の幸せ・・・
今からもう思い残すことなくただひたすらに・・・私に思いやりを・・・
温かく優しい心を・・・そして素晴らしい友との出逢い・・・
感謝の気持ちでいっぱい。大好きな宝塚―1989・3・4 毬藻えり」


南風まい
「宝塚・・・それは私にとっていつまでも少女のままの純粋な気持ちを持たせてくれる夢の園。
そして砂漠のオアシス・・・一言でいえない素晴らしいところです。」


鮎ゆうき
「私の宝塚。今離れてみて、その素晴らしさをつくづく感じました。
これだけあたたかくてエネルギーを持った集団は他にないと思いました。
宝塚には姉妹のような同期、いろいろ助けてくれる下級生と
温かく厳しい目でご指導して下さる上級生がいます。

いつも当たり前になってしまっていたんで一人になってみて大切さが判りました。
又雪組みのお稽古場を見学した時、
踊っている皆の目がキラキラ輝いているのを見て鳥肌が立ちました。

私は宝塚が大好きです。
今私が外の世界でやらせて頂いている事は、素晴らしい経験です。
毎日いろいろな事をけ勉強させて頂いています。
ですからこの事が宝塚に帰った時に生かせたらなあと思います・・・
沢山の人に、何故宝塚に帰るの?って聞かれました。
だから、私の舞台を観に来て下さい。そうしたら判りますヨ、と言ってました。

やっぱり私は舞台が好きなんです。
この四カ月間いろんな事を経験して最後に思ったことは私は宝塚の生徒なんだという事です。

今帰ってきて何をしても楽しいです。
きっとこれからもいろいろな事があrと思いますが私はいつも精一杯頑張ります。

まずは、風と共に去りぬに向かって、初舞台の気分です。どうか見守ってくださいネ。
        鮎 ゆうき 昭和621225日」

小乙女 幸
「母が宝塚に在団していたこともあって幼い頃より観ていた舞台、とても好きでした。
いつも夢があって優しくて・・・私も宝塚に入りたいと思ったのは、
ベルサイユのばらを観てあのワッカのドレスを着てみたいという気持ちをもったから。
そして母の退団した後の同期生達とのかかわりあいをずーっとみて
その強いきずなをうらやましいと思ったから、
そして入団して上下関係の厳しさや社会に生きるルールを教えて頂いたと思っていますが、
むずかしいのは、世間にうとくなってしまうことです。

舞台人なのに他の舞台をあまり観なくてもいいと演出家がおっしゃったり、
組ごとに動くので人間関係もせばまってしまったり、
もっと自由にもっと大らかにしたら良いのにナとも思います。
でも74年間の伝統は素晴らしいと本当に思います。

もっといろんな方々に観て知って頂きたいです。
PRをもっと上手にして世界にはばたいてほしいと思います。
もし娘が生まれたら(本人の意思にもよりますが)
三代目タカラジェンヌにします。小乙女 幸」


大浦みずき
「今は不安とキンチョウ感を毎日食べている様です。
でもプレッシャーに負けないゾー。花組をよろしくデス。
        1988年3月27日 大浦みずき」


ひびき美都
「いよいよ初日が目の前に・・・とにかく今はやるっきゃない。
一日一日、一回一回を大切にして、明るい華やかな花組になるよう、
私も力一杯頑張ります。キャル ひびき美都」


美輪さえこ
「宝塚・・・ほんのひとときの夢の様な世界
現実を離れて、人に愛と希望をわけてあげる・・・
そしてその為に私達は、泣き、笑い、悩む・・・
でもいつの日か心の奥深くから微笑んで、この世界を
見つめられる様になれたら・・・今 思う。」

檀 ひとみ
「宝塚の舞台。
それは不思議な国。
普段はおとなしくて何も出来ない私が
衣装を着てお化粧をして
別の世界の色んな人と、めぐり会うところ。
これからも、この不思議な国を、旅していきたい
ゆっくりとマイペースで・・・小さなアリス 檀 ひとみ」

麻実れい
「宝塚を知り 皆様の愛にふれた事 感謝しています。
我が青春に悔いない・・・沢山の思い出と共に  麻実れい」

遥くらら
「宝塚それはひとつのおとぎの国
温かくフワフワしている 夢の国
地球儀 ぐるっと回してここが一番すてきな国  遥くらら」


北野にとってこの白い本は宝物に等しい。
何故かと言うとこれだけのタカラジェンヌ達が心の中を素直に書き綴っているからだ。

北野の頭の中にはこの白い本を読むとふーっとその頃が蘇ってくるのだ。
愛と夢と情熱として心温かきタカラジェンヌ達の面影が・・・・

面白いのは遥くららと鮎ゆうきだ。
二人共TBS系のテレビドラマに出演し、そろって里帰りしトップ娘役になったことだ。
心を外に置き忘れてこなかった証拠であろう。中には置き忘れてきた人もいた。

舞台は鏡、鏡は貴方の心を写し出すと北野はよく親しい生徒に話した。
この鏡ほど恐ろしいものはない。観客に生徒は心の中を見られてしまうからだ。


宝塚歌劇団の稽古場には掟がある。
掟というと恐ろしいものを感じるかも知れにが、伝統と言い換えた方が適当なのかも知れない。

宝塚ほど上級生、下級生ら上下関係がはっきりしているところはないだろう。
例え、姉妹でも姉が後から入学したら、下級生となる。
宝塚大劇場と同じ大きさの長方形の稽古場も上級生順で座るところが決まっている。
鏡のある正面が演出家スタッフの席、その左側が専科やトップスター、上級生の席、
右側が研2からの下級生の席で、研1生は右隅あたりとなっている。
トップ娘役もトップスターが呼んでくれると座れるが
そうでないと娘役が下級生だとやはり下級生の席となる。

かつて鳳蘭が遥くららと組んでいた時は、下級生の遥を自分の席に呼んだという。
トップスターの気遣いというものかも知れない。
各組の組子は稽古はもちろん公演中もトップが舞台に出ている時は。
舞台の裾から必ず見て勉強していたという。
それだけに舞台の裾が組子で一杯になるほどだった。


「宝塚にジャングルがあるといっても誰も信用しない。実はあるんです。
でもそのジャングルは樹木がうっそうと生い茂っているあの密林のジャングルではありません。

タカラジェンヌと呼ばれるようになるには、宝塚音楽学校に入らなくてなりません。
あの「ベルサイユのばら」の時代は競争率は59倍と言われ、
東大か宝塚と言われるほど狭い門でした。

ここで2年間、予科、本科を終了し卒業できればめでたく宝塚歌劇団に入団出来るのです。
でも入団出来たと思ったら、そこはジャングルの入り口なのです。
とにかく初舞台のロケットが目の前にあり、
自分達がすでにジャングルの中に入り込んだ事も気付かないのです。

獲物を狙う野獣はそこらじゅうにいるのです。
例えば何気なく通りで写真を撮られ、出来上がった写真をどうぞと持って来る。
そこでこの写真を黙って善意と思いもらってしまうと、大変な事になります。
なにしろジャングルの中は野獣ばかりなのですから。

これを上手にすり抜けたとしても、落とし穴もあればへびも出てきます。
何処からか毒矢が飛んでくるかも知れません。ツタに巻かれるかも知れません。

トップスターという砦はジャングルを抜けたところにあるのは確かです。
折角ここまで来たのに毒矢に当たり死んでいる人、落とし穴に落ちて白骨化している人、
つるに巻かれて息絶えた人がいます。こんな人が死んでいる、
という時もありますから、驚いてはいけません。ここはジャングルの中なのですから。

ここもどうにかすり抜けていきました。
落とし穴に落ちそうになっても、時には同期が助けてくれなければ一巻の終わりです。

今度はライオンです。噛まれて少し怪我をしたようです。
でも手当が出来る怪我の様です。手当が出来なければここで終わりです。

段々と状況が判って来た人はボディガードをつけている人もいます。
ガイドを連れてくる人もいます。

トップという名前が入った宝箱のある砦まではもう少しです。
やっと砦にたどり着いても階段の所で力尽きて倒れる人もいます。
仮にガードマンやガイドを連れていても物事を判断するのは自分です。
大切なのは自分の判断力です。判断が間違えばジャングルの中で迷子となってしまいます。

砦の階段を上りはじめました。突然沢山の番兵が出てきて、守ってくれます。
こうなったらもう安心です。毒矢も落とし穴もライオンも出てきません。
やっと手にしたトップという箱の蓋を開けることが出来ます。
そうです、ジャングルは樹木ではなく人間だったのです」


植田紳爾の脚本・演出の「戦争と平和」の宝塚歌劇での舞台化で
初めて冠スポンサーがついた。
この時植田は
「これはやっぱり嬉しいですね。
やってきた仕事が外部でこのような作品に、冠をつけようということは
作品を認めてもらったことで作者としても演出家としても名誉で、
喜びはひとしおですね。これをやる星組も名誉で勲章ですね。感謝してます」

前にも書いたが、植田はこの作品で麻路にいやらしい役をやらそうと考えた。
そのいやらしい役とはアナトリーで、それを演じる事になった麻路はこう話した。
「大作のアナトリーとは思わずに戦争と平和をやっているのは嬉しいが、
それよりもやりたい役が回ってきたなと思い取り組んでいます」

この話を聞くと、麻路の心の中を読んだ植田のキャスティングが図星だった事を窺わせた。
これに似た話は麻路が「ディガディガドウ」の公演の時、
二番手の紫苑ゆうが宝塚のアメリカ公演の宣伝で公演途中で休演することになり、
その役が麻路に回ってきた。

その時、麻路はこう話している。

「不安反面こんなチャンスはめったにないという喜びを
同時にこれだけ大きいものをさせてもらうのだから、もっと自分自身、自覚を持ち
そういう立場になってきたんだなあと実感しました」

この時の演出の小原稔弘は麻路についてこう話した。
「なかなかあの子は研究熱心で、あれだけ忙しい新人公演で主役をやった翌日には
もう二番手のセリフ覚えてましたからね。
まあ将来宝塚を背負っていく人でしょうが、これが良い経験になったでしょうね」

ディガディガドウでは新人公演で麻路さきがトップの役をやり
結局一番手、二番手、三番手と全部の役を演じてしまったのだ。


白い本より
「私と宝塚。もの心ついた幼い頃から、中学、高校時代、そして現在も
宝塚こそ我が人生と思い込んでいるのです。宝塚の人間なのに宝塚ファンなのです。

何と言う甘さ。小原稔弘」

植田紳爾が宝塚で「風と共に去りぬ」を舞台化することが出来たらと夢見たのは、
ベルサイユのば2の稽古中スタッフや出演者と雑談中、
ベルばらの次はなにがいいだろうということになって、
矢張り「風」ではないかという結論が出たときだと、
植田は当時のプログラムに書いている。

舞台化が難しい本を植田は宝塚ということを逆手にとって舞台してしまったのだ。
その最大の功績は主題歌にあるといえる。
「君はマグノリアの花の如く」「さよならは夕映えの中で」「愛のフェニックス」
「水色の愛」「故里は緑なり」「幸せはどこ」で
特に寺田滝雄作曲のさよならとフェニックスがこの作品を支えたと言っても過言ではない。
勿論、都倉俊一と入江薫の曲も忘れてはいけない。

さらにこの「風と共に去りぬ」を盛り上げたのがヒゲ騒動であった。
天下の宝塚のトップスターがヒゲをつける、いい否悪い論争は果てしなく続いた。
で、トプスター榛名由梨がヒゲをつけた。似合う。
続いての星組の公演で鳳蘭は躊躇なくヒゲつけた。
こちらはいやにクラーク・ゲーブルに似ていた。

そして植田はスカーレットを二人にしてしまった。
本当のスカーレットと陰の心の中のスカーレットである
宝塚にベルサイユのばらに続いてもう一つ油脈が出来たのである。
レット・バトラーには麻月鞠緒、榛名由梨、鳳蘭、後に麻実れい、麻路さき、
スカーレットには安奈淳、順みつき、北原千琴、遥くらら、玉梓真紀と
黄金時代を誇っていた。

そればかりでない振付の岡と喜多も大切な人であった。


 いよいよ最終回へ

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最終回

雪組と星組の「ベルサイユのばら」を連続公演した時、
植田紳爾は、僕たちの中ではフェルゼンをするのはこの人でいきたい、
宝塚の中で絞られた三人は、紫苑、朝香、麻路しかない、と言い切っていた。

アンドレが杜けあき、オスカルが一路真輝、
そしてフェルゼンが紫苑ゆう、朝香じゅん、麻路さきの顔ぶれ。

「ベルサイユのばら」の作曲者・寺田瀧雄は白い本にこんなことを書いている。
「私と宝塚。私の仕事場、私の美の発想、私の汗、私の魂そして私の美の極致 寺田瀧雄」

杜がアンドレをするに当たって「幸せとか夢みたいという言葉ではいえないような
ちょっと現実離れしている自分がかえって不思議という感じ」


一路のオスカルは「宝塚に入った時どんな役がやりたいと聞かれた時
オスカルがしたいなあといつも思っていたので、そのものがやれるということは夢のようで、
このように紛争をしていても信じられないという気持ちです」

フェルゼン役の朝香は「とにかく美しく出るということです」
紫苑は「この作品に出れる事が夢みたいで素敵な役をやれて
夢がかなうという事はこのことなんですね」

麻路は「一言でなんていうか判らないけど、信じられない、
この衣装(フェルゼン)を着ている今でも」


この頃の稽古場は熱く燃えている感じがした。
演出家もスタッフも生徒も稽古場に取材に来るメディアも皆気持ちは一つだった。
それは良いものが出来るようにということだった。

ファミリー的雰囲気があり、気持ちが一つになっているようであった。
皆の気持ちのレベルが一致していたのだろう。


月組の涼風真世がまだ二番手くらいのとき
北野は親しくしていた月刊フィガロジャポンの編集者から
いつも言われていた話を思い出して涼風にした。

かなめ、公演が終わって次の稽古迄時間があるとき
ヨーロッパに取材に行く話があるけど、いかないか?

かなめはすぐに、行く行くと二つ返事で答えた。
北野は理事長の坂に密かにこの話をすると、
意外にも坂がそんな奇麗な本の取材なら是非ともお願いしたいですね、と乗ってきた。

かなめの予定を調べると6月丁度数週間の休みがあることが判った。
北野はこの事をフィガロジャポンの親しい編集者に知らせた。
いいでしょう、そこでいきましょう。勿論北野さん、貴方も来れますよね、一緒に。

北野は瞬間に会社は年休でいいかなと考えた。行きますよ。
暫くして運悪く湾岸戦争が勃発した。
陸続きのヨーロッパは厳戒態勢となリ、旅行どころではない。残念。

ところが運良く湾岸戦争は短期間で終結をみた。いけるぞ、北野は涼風に伝えた。

企画の内容は次のようなものだ。
「フィガロスペシャル ベルサイユのばら永遠に 
宝塚 涼風真世フランス15日間の旅オスカルと言う名の私を探して」というものだ。

掲載は1991年8月号だ
同行に歌劇団は男性プロデユーサーを出してきたが北野は女性でないと困ると言い、
理事長の坂に広報担当の春馬を指名した。

北野は関西国際空港から日本航空機のビジネスクラスでパリへ、
涼風と春馬は成田空港からエールフランス機でパリへ。
ホテルは総て四つ星ホテルで、到着後すぐに中華料理を食べに、
ところが涼風は椎茸が大嫌いなのに何故か椎茸が山盛り出てきたので、
おかんむりになってしまった。わざとしたんだろうと。

スタッフは衣装、化粧、コーデイネーター、通訳、カメラ、助手など総勢10人皆現地の人間だ。
初めは寄せ集め人間の集団なので命令指揮系統がばらばら、
北野は腹を立てベルサイユ宮殿での撮影の時、全員を集めてこの企画の原案、企画は俺だ。
つまりおれの意見に従ってくれとカツをいれた。
これが効を奏したのか、それからは全員が誰が親分か鮮明になった。

ベルサイユのばらに関するパリのあちこち、
その合間にスポンサー用のかなめの撮影とかなりハード。
パリからボルドーに行くのに飛行機がストライキ、急遽TGVに変更、
面白い事に団体10人がすっぽりれ座れる車両があるのも面白い。

ボルドーはサントリーが持っている、プチ ベルサイユといわれるお城で撮影、
シャトーベイシブルを作っている河の下にあるセラーまで訪ねた。

ボルドーからパリまで小型飛行機で、この間フィガロジャポンの担当者が
涼風をロンドンに連れて行こうと言いだして、撮影休憩でロンドンに、
再びパリにもどり、今度は
レマンに。
ここの空港は右からですとスイスで左からでるとフランス。
カメラマンがパスポートを忘れてきたので左右に別れた。

ホテルはロイヤルエビアン、丁度英国の皇太后が宿泊していた。
目の前はレマン湖で反対側はゴルフ場、しかも泊り客は無料だ。
エビアンの原水の所まで行き、
再びパリへそして絢爛豪華の食事などパリ満喫取材旅行となった。

そしてフィガロジャポン8月号を、
「ベルサイユ宮殿他フランス現地独占取材、
涼風真世が旅するベルサイユのばら、今年5月23日から2週間
忙しい公演の合間に涼風真世が訪れたベルばらの現地舞台、
フィガロジャポンだけの独占企画全30頁」という華々しい見出しで表紙は飾られた。

かなめは涼風真世のフランス日記で、こう書いていた。
「フランスに来てオスカルはもう一人の私であった。18世紀に生きていた私に。」


これに似た話は麻路さきにもある。
北野が知り合いの日本航空大阪支店長の細川が麻路をひいきにしていた。
その彼が丁度日航がニューヨークを売出したい頃で
麻路をテレビのコマーシャルに使おうと言いだした。
自分の部下だという当時宣伝部長を呼び、麻路と会わせたりした。

そのころ日本航空大好き男が演出家で居た。小原だ。
彼はダンボ耳で何処で聞いたのか、

北野さん、マリコニューヨークにいくんだって」と聞いてきた。
面白い事に麻路が男役のため、
ショートパンツでニューヨークの町を一跨ぎする場面があることが判り、おじゃんになった。
これが実現していたら話題になっただろう。

花の道にお好み焼きの「舞」という店があった。
上方漫才のAスケBスケのBスケの店で、
切り盛りしているのは彼の恋女房の通称おかあさんだ。

この店にはマイグラスならぬマイ升があり、
これが置けるようになることは、それだけ回数を重ねていることと、
おかあさんに認知されたことになる。あなたはこの店のお客よと。
通りから引き戸を開けたらすぐカウンターなので、店には入りやすい。
戸棚には生徒が自分でサインした升がぎっしりと並んでいる。

回を重ねるうちに北野もおかあさんと気心が知れるようになった。
おかあさんは何時も熱い鉄板を前にして小太りの体を器用に動かしていた。
北野は作家の陳舜臣さんを案内して宝塚歌劇を観劇した後、よく「舞」に寄った。
いつしか陳舜臣さん、北野の名前の入った升が戸棚に並んでいた。
「結婚してくれないと死ぬなんて言っていたのに、
こないだなんて、ちょっと酸素吸ってくるなんて言って出て行って、
いくら待っても帰ってこないと思ったら、韓国から電話かかってきたんよ」

旦那は店にいたからどうってことないが、いないと駄目という人間看板みたいなものだ。
いつしかこの店で一路、涼風、麻路の3人の誕生日を各々の日に集まりする習慣になった。
春馬、草野、大橋などが参加、北野はボージョレヌーボーや
シャトウペイシブルのワインをそのために運んだ。

皆遠慮なくできるのが雰囲気を盛り上げた。皆家族という感覚だ。

北野はおかあさんから生徒の話をいろいろ聞かされた。でもつい寄りたくなる店だ。
「舞」も地震で倒壊して仮店舗で営業を続けたが、昔の雰囲気はなく、
おかあさんも体調が悪いと言っているうちに亡くなった。

おかあさんにはどれほどの生徒が世話になったか計り知れない。
宝塚歌劇の陰のスターと言える。


 フェアウェルパーティ 69期

宝塚新劇場建設は七十五周年ではじまり平成二年に着工、
平成四年九月二十八日に完成した。
六十八年と五ヶ月使用した旧の稽古場とはそれまでにお別れして、
宝塚ヘルスセンターの建物を臨時の稽古場に使用した

旧の稽古場さよなら式は盛大に一番教室で行われ
北野も夕方のローカルニュースやネットニュースで生中継した。

生徒たちは汗と涙が染み込んだ床のリノリュームを剥がして記念に持ち帰った。
喜多弘が稽古場の壁に、ここは戦場だったと書き記す姿が何ともいえない淋しさを感じさせた。
北野も剥がした床に大浦みずきや剣幸、涼風真世などにサインをしてもらった。

喜多が言うようにそうだ皆戦友なのだ。ここの稽古場にいた者は。

 落書き  舞のお母さん

宝塚歌劇団には関係者用の業務券という制度があった。
内部の人達が外部の知り合いに公演の切符を頼まれた時とってあげるためのものである。

長年の制度でかなりの枚数がこれで捌けていた。
席はたまには悪い時もあるがそれはそれなりに取って貰った人達には喜ばれていた。
面白いのはこの業務券の引換証に書かれた文句である。
販促の一つで業務券 お願いとかかれており表は宝塚大劇場座席券お引き換証
裏にはこんな事がかかれている。
常日頃宝塚歌劇をご観劇下さいまして有難う御座います。
甚だ勝手なお願いでは御座いますがこの座席券お引き換証をご利用のお客様には
ぜひとも宝塚友の会にご入会頂きます様お願いいたします

この業務券は販促の重要な役割をはたしていた。後にこの制度は消滅した。

旧大劇場の最後の公演は平成4年10月9日からの雪組杜けあきの退団公演は忠臣蔵だった。
作演出は柴田侑宏。柴田も植田と共にサヨナラ作家と言われていた。

忠臣蔵は前々から柴田が狙っていた出し物で杜にはぴったりであった。
振付は柴田が毎回組んでいた花若春秋。彼も後に亡くなった。
内蔵助演じる杜けあきは大楽日最後の場面で下手に入る時、
一言『もう思い残す事は御座らん』と言って引っ込んだ。

ファンへの別れ、劇場への別れ、自分自身への別れ、総べてを
杜けあき、愛称かりんちょは上手いこと最後を仕切ったと北野は舞台を見ていて思った。

討ち入りの日に近い平成4年11月24日大劇場は幕を閉じた。

幕が下りた途端に関係者が一番に狙っていたものは座席の後についている座席番号札であった。
ドライバー持参であっという間に持っていったのが、やけに愉快に思えた。


北野は消え行く大劇場になんともいえないノスタルジーがあった。
それは初舞台生のロケットお披露目で舞台の上から生中継したこと、
これが北野の?宝塚大劇場の初舞台であった。
そして月組のボーイミーツガールの舞台稽古も北野が舞台から生中継した。
この時は、榛名由梨がトップで大地真央もいたが下級生だった。


新劇場は平成4年12月12日「祝典花絵巻」「宝壽」で舞台開き。
小林公平が真剣で舞台の上でしめ縄を切った。

平成5年1月1日星組の、「宝壽頌」と「パルファンド・パリ」でこけら落とし公演だった。
星組のトップは紫苑ゆう次いで麻路さき。
トップスターが退団する時最終公演の最後に必ずサヨナラショウがある。

本公演終了後緞帳前で組長が挨拶
休憩のあとトップスターの思い出の曲集となる。
続いて組長がセンターマイクで退団者の紹介
すみれの花咲く頃の曲が流れる中退団者が次々と大階段を降りる。
退団者に花束贈呈、退団者挨拶で緞帳となる。
大階段から緑の袴をはいて降りる事ができるのは研8以上でそれ以下は舞台の裾から出てくる
たまに大階段から降りれない退団者もいた。

退団する生徒がいると稽古最後の日に稽古場で全員が円陣をつくり、
退団する生徒に一人一人からばらかカーネーションの花を渡し、
言葉を交わしながら別れを惜しんだ。この時は上級生からとかいう事はない。
演出家もスタッフも事務所の人も加わった。

近年、稽古が終わり退団者を送るので組長が花を用意、ところが生徒が円陣にならない。
いくら声をかけても聞かない、そのうちに各々の期ごとにばらばらに始まっている。
自分勝手に、自己虫であった。

北野は組長に言った。皆輪になってやるということを知らないんだよ、
見たこともないし、鼓笛がなくなり、舞台の位置決めがなかなか出来ない。
稽古場の別れの場でもチームワークがなくなっている。
伝統の中の継承がされないまま時が進み、宝塚の伝統が消滅しはじめていた。

夢のアイランドは向こう側にあるのでなく、遥かかなたに行ってしまった。
つまり遥かかなたの向こう側だということである。


何事にも運がいる。北野はよく麻路さきにお辞儀は只、見返りは大きいと話していたが、
もう一つ運八十努力二十だと言う事もよく話した。


新劇場になってから、やたらに足をけがする事故が多くなった。
宝塚で古くからお店をしている人が北野をある日呼び止めた。
「最近怪我が多いけど塩をラップに包んで肌につけておいて、
稽古や舞台が終わったら足元にまくといいんですよ。言ってあげて」

北野はそれを誰に言えと言うのかはすぐに理解できた。

星組のトップ紫苑ゆうが稽古中にアキレス腱を切ってしまうアクシデントが起きた。
稽古はかなり進んでの事故であった。
劇団としてはどうするか迷ったが麻路に
「紫苑の代わりがやれるか」と聞いた。
いつも夢を見て次を求めてきた麻路、その夢は人には決して話さない。
何故なら話したら運が消えてしまうと考えているからだ。
夢にみていたトップ・・の代役だがトップの役だ。


「うたかたの恋」のルドルフの役が目の前にある。
自信は・・・ある。いや無い。でも
「やってみます」
麻路は震える心の中の動揺を抑えてプロデユーサーに、劇団に伝えた。
演出は柴田侑宏。申し分ない。
運があっても努力しなければどうしようもないが、
努力しても運が無ければ、これまたどうしようもない。

運八十努力二十とは、このことかも知れない、と麻路は思った。
かつて麻実れいと遥くららが演じた出し物である。
姿、風貌ともルドルフは麻路にはぴったりであった。


北野はしばらくご無沙汰していた宝塚の舞台稽古を見に行ってびっくりした。
舞台の上で動き回っている演出助手を見て何処かの裏方会社の人かと思ったからだ。

それほど異質に感じた。
今は一本立ちしている正塚も中村も小池も谷も石田も皆、演出助手時代は稽古場で
あるいは舞台稽古で次の世代に宝塚的なものを教え教えられてきたのだ。
生徒も宝塚は何ぞやというものを彼らから学んだ。

それがいつしか伝えられなくなっていたのだ。
それで舞台稽古の雰囲気も以前と変わっていたのだ。

裏を返せば昔は白井組とか誰誰組とかという徒弟制度みたいな形でもの作りを学んでいた。
そこから身にしみて風潮が身に付いた。それが今はない。

日本物をしても刀の差し方も知らない。
昔は上級生が歌舞伎を観るツアーをつくり、
下級生もそれに連なって観に行き覚えたのだが、今はない。
そんなツアーを組んでも参加する生徒もいない。

いろいろな形の宝塚の良き風習が何処かに去ってしまった。
伝統は消え、歴史だけが進行している。

去ってしまった今求められるものは、宝塚らしさである。らしさとは何なのか?
華やかなコスチュームと共に歌と踊りのなかに芝居がある。
ストーリーは甘く悲しく切なくロマンが限りなく存在する。
つまりは宝塚大劇場の機能を生かした作劇法があるのだ。

場面転換が速い、30秒とか40秒の早替わり、
素早い背景の転換全てがやすみなく進行するとことが魅力なのである。


宝塚の演出家は座付き作者ということを忘れてはいけません。
生徒のキャラクターを生かす、かつて高木史郎がこんな事を言った。

白井さんが演出していると使ってもらえない生徒が文句を言いに白井さんの所に行くと、
一言、君が下手なんだから使えないよ、で終わった。いいですね。


理事長の市川安男にもこれとよく似た話があった。
ある演出家がロケットと大階段を降りるフィナーレを作らなかった。
それを観た市川はその演出家を呼び
今後ロケットとフィナーレをしないなら、辞めていただきます、と言った。

その後、最後にストレスを消してくれるロケットとフィナーレは必ず観ることが出来た。

宝塚の男役は本来中性であり、疲れもなく現実の男でもない。食べてるものはカスミだ。
おいそれとスーパーマーケットに葱や豆腐など買いに行けない。
そんな姿をファンが見たらすぐに抗議がその生徒の所にくる。
カスミを食べて生きている人が葱を食べるなんて。

かつて振付の喜多が男役でも女に変える振りがある。
そういう時は男と女の境界線をつくると。
男役のズボンの裾は斜めにカットしてさらにゴムで靴の下と結び、たるみを見せない。

科白も現代風は夢の世界を作りにくい。
演出の柴田がトップに喋らせる科白を作るのは難しいと言ったが、
そこが座付き作者の腕であろう。

娘役も女ではいけない。あどけない娘でもいけない。宝塚の娘役が必要なのだ。
声のトーンも遥くららが、一オクターブ高い声にしていたので大変だったと言っていたが、
そこが娘役をする人の気持ちなのだろう。


宝塚という永遠のテーマは決まっているが、宝塚らしさは消え去りはじめた。

「地震の年にやっとトップになりました。
12年間アッという間で、これから残りの宝塚生活を大切にガンバリマス。
まだ地震の傷跡が残る今だけど復興する頃は私ももっと大きくなりたい。
       95
年3月31
 S ASAJI」白い本より

らしさを維持した最後の生徒が涼風であり、一路であり、麻路であったのではないだろうか。
この三人の中で裏方に一番のエピソードを残したのは麻路だろう。
星組公演で「二人だけが悪」という芝居で、装置を常に移動させないといけない物語であった。
このため公演中、裏方二人が装置の裏に入りっぱなしになった。
それを知った麻路は初日から千秋楽まで毎公演が始まる前に、二人の裏方に自分でジュースを、
しかも蝶の形をしたナフキンをストローにつけて運んだ。
千秋楽の日、裏方が麻路に花束をお礼に贈った。

この話は理事長の荒木から聞いた。蝶の紙ナフキンの話は裏方から聞いた話だ。

もうひとつある。
麻路の退団公演の時かなりのハードスケジュールで体もぼりぼろになっていた。
ショーで痛めた足は回りで見ていても痛々しかった。
心配していた北野にある日、舞台事務所の林が、もう大丈夫です、
特製の早替わり部屋を舞台の裾に作りましたからと言ってきた。
こんな事今まで誰にもしたことがありません。林はさらに付け加えた。
あの子は私たちの所に気を使って自分でお菓子や飲み物を運んでくるんですよ。
普通は下級生に運ばせるのに自分で持ってくるんです。
そりゃ何かしなくてはと思いますよ。
その結果が過去どんな生徒もしてもらった事のない舞台横の特製早替わり部屋だった。


いよいよ最後の日、大階段を麻路が降りてくる日になった。
舞台事務所の林も豊田も、北野さん安心して客席で観ていてください。
ちゃんと階段降ろしますから。過去に沢山のサヨナラ公演は観たが、
裏方がここまで燃えて全員が集中したサヨナラ公演は観た事がなかった。

宝塚大橋で北野にお辞儀をした麻路、
そしてお辞儀は只だ見返りは大きいから誰にでもお辞儀をと教えられ、
それを守った結果がこれであった。


麻路さきの退団記者会見は大阪の阪急インターナヨナルホテルで行われた。
はじめに理事長の植田伸爾が
「宝塚の男役の美学を具現化できる数少ないスターの麻路さきに
次の時代に指導や教えをして欲しいと思ったが残念ながら駄目でした」と挨拶した。

続いて麻路さきが次のように話した。
「いろいろと考えてこういうことになりました。
トップになって3年目頃から今後の事を考えるようになり、全く白紙状態なので
これからさき、生きていくのに何ができるか考えるにも退団を決めてからでないと、
男役にも集中できないと考えたからです。
東宝劇場がなくなること、4組で育った自分なので
5組になることも辞める時かなとも考えました」


北野は以前に植田からこんな話を聞かされた事があった。
「まりこを専科にして毎年一本まりこの主役の出し物をやると共に
後輩を指導してもらいたいと考えている。北野さんからもまりこに話してみてくれない」

その話を北野はまりこに話した。
「でも専科と言っても今のままではなんの変わりもない事になり、
専科の最下級生ということになってしまうだけでしょう」

北野には、まりこの言う意味が理解できた。
要するに環境整備されたのなら別だと言う事であった。


麻路さきのサヨナラ公演は勿論植田紳爾が担当した。
暴君ネロの話の「皇帝」ショウは草野旦で「ヘミングウエイ レビュー」

稽古が始まりしばらくして北野は宝塚歌劇団の事務所をのぞいた。
ちょうど植田紳爾が稽古場から事務所に戻ってきた時だった。

北野の顔をみると、すうっと近づいてきて
「まりこの稽古見た?いいから見てよ」といった。
北野はこんな事言うのは珍しいなと思った。
かつて鳳蘭が去るとき見せた同じ淋しさを感じたからである。
皇帝でネロの役をする麻路さきの最後の科白は
「皇帝にして神。芸術家にして道化師。
悪逆非道の暴君ネロ・・・永遠に帰らぬ・・・旅に・・発つ・・」

植田はこの時既に麻路が結婚の道を選んだ事を知っていたのだろう。
未来がある人には旅立ちを与えていた植田の物語がここでは帰らぬ旅と表現しており、
鳳蘭のように芸能界に行くのでないことで、このような言い回しにしたと、北野は思った。


面白い事に麻路さきは旧の大劇場、稽古場、楽屋、仮の稽古場、楽屋、
新しい大劇場、楽屋、稽古場総てを経験したスターであった。


北野の心の中に走馬灯のように思い出してくるのは、
三人組と言われた涼風真世、一路真輝、麻路さきの三人の誕生日の時
必ずお好み焼きの「舞」に三人集まり互いの誕生日のお祝いをしたことである。
北野は舞のおかあさんがいつも横で嬉しそうに見ていたのが印象的だった。
その舞のお母さんも亡くなった。集まる度に三人は何の気遣いもなく楽しんでいた。
そんなトップは後にも先にもいない。
同席する顔ぶれは時々変わったが、鮎ゆうき、麻園みき{麻路さきの妹}、
春馬誉貴子、草野旦という人達である。

それと月刊誌のフィガロジャポンに「デジャブ」というタイトルで
エッセイの連載を麻路さきにしてもらい、その後同名のタイトルで
北野が入団当時から撮り続けた麻路さきの写真と麻路さきのエッセイを一つの本にして出版、
その出版記念会を外国人プレスセンターで開いた事であった。


北野が知っている宝塚歌劇は夢のアイランドだった。

作家の陳舜臣さんは北野に進められ気分転換にと星組の麻路さきの舞台を観てきた。
それは麻路さきが研三の頃からである。
星組だけでなく花組も雪組も月組も観劇した。そして宙組も見た。


          陳舜臣

「宝塚は毎日が黄道吉日
太陽が運行する円
春分をゼロとして今274度
毎日同じしあわせ TAKARAZUKA 1984年1226日 陳舜臣」白い本より 

    



        あとがき

昭和51年、関西で夕方の時間帯にローカルのニュースをメインにした
ワイドニュースを民放各局はスタートさせた。

私は当時、事件記者をしており、ローカルニュースの編集長から
切ったはったでないニュースをと言われ、宝塚歌劇を思いついた。

宝塚歌劇団の当時の小林公平理事長に「関西の宝」の宝塚歌劇を取材したいと話すと、
世界のでしょうと言われたのが妙に頭に残った。

女だけの劇団でかつてはこの記者に頼まないと宝塚の取材が出来ないとか、
いろいろ話を聞いていただけに、取っかかりは歌劇団にいた甲斐さんと沼田さんであった。

その頃の劇団事務所は古い建物の中にあり、事務所の左奥に理事長室があった。
「ベルサイユのばら」3の公演の時は、宣伝担当は大西八洲男さん、春馬誉貴子さんになっていた。
宝塚歌劇の取材をはじめると反応も凄いし、未知の世界だけに取材の魅力も充満している。
稽古場からの生中継、稽古場の取材、舞台稽古、初舞台生のロケット、
合格発表と初めての試みとあり、常に話題を生み、ニュースの重要な一項目となった。

当時は劇場も取材になれておらず、
舞台の音をラインで取るというのもなかなか理解してもらえなかった。
そのため舞台の音をマイクで取ったりしていたが、
生徒のワイヤレスマイクがハウリングを起したりして大騒動になつたりした。

熱心に稽古場に行き、生徒達と顔見知りとなり、気心が知れ、事務所の人達、
スタッフ、裏方にも取材の目的が明快に理解され、協力を惜しまずしてくれるようになった。

私や熱心なメディアの記者はいつも稽古場に来て稽古を見る、
そこで生徒達も芝居に必要ないろいろな話を聞き、見聞を広めたのだった。

スタッフもしかりで、互いに作品をより良いものにしようという気運は自然に高まった。
皆が一丸となっていたのだ。

忘れられないのが旧一番教室をはじめとした旧事務所の取り壊しである。
一番教室でのフェアウェルパーティの時、
生徒や元生徒は自分達の汗と涙が染み込んだ稽古場の床を剥がしていた。
私も濃い緑色の床の一片にサインしてもらったのを大切に持っている。

それと退団する時の最後の稽古場でのセレモニーである。
お嫁に行く人は頭に花飾りをうけ、楕円形になった生徒一人一人から一輪の花を贈られ
別れの言葉を交わし、これにはスタッフも事務所の人もメディアの人も加わった。

サヨナラ公演の取材で忘れられない人達は汀夏子、安奈淳、鳳蘭、遥くらら、榛名由梨と
但馬久美、麻美れい、杜けあき、一路真輝、涼風真世、麻路さき、白城あやか他沢山いる。

蛇足だが、私がワイドニュースを担当していた時、
宝塚歌劇を取り上げ放送した回数は約150回、
これを放送当時のBタイム料金で換算すると1分100万円としてざっと7億円位。
又、当時コマ劇場でした三十周年記念事業公演と大阪城ホールで開催した
第一回一万人の第九コンサートに、花組の出演は市川・坂理事長が
会社でなく貴方に提供するのですという発言は私の胸を熱くした。

スタッフも稽古場で鳳蘭が去った後の稽古で、
植田紳爾さんが瀬戸内美八に思わず、ツレちゃんそこ違うと無意識に発言したり、
麻路さきの最後の公演の稽古で彼女は良いよ、見た?見てよという発言。
柴田宥宏さんの様に生徒を細かく分析してダメだしするとか、
小原稔弘さんみたいに生徒に燃えたり、
岡田敬二さんは生徒と喜んだり気軽にメディアに意見を聞かせに行ったり、
喜多弘さんみたいに熱く燃え、
寺田瀧雄さんは自分の音を大切にし、皆観客に夢を与える努力に懸命だったのである。
私はそれを嫌でも稽古場で見聞きし尽くした。
それを証明するのは文中に引用した白い本の文章であろう。

当時劇団にはこんないい雰囲気を創り出してきたのが、宝塚の伝統であり、歴史である。
メディアの取材者として、語り部としてそれを書き綴り残したかった。

2002年1月、夢のアイランドは向こう側に行ってしまった。私はそう思った。

                    完


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